渡辺国武
渡辺 国武(わたなべ くにたけ、旧字体:渡邊 國武、1846年3月29日(弘化3年3月3日) - 1919年(大正8年)5月11日)は、明治期の日本の官僚、政治家[1]。勲等は勲一等。爵位は子爵。旧姓は小池。第2次伊藤内閣の大蔵大臣、逓信大臣、第4次伊藤内閣の大蔵大臣を歴任した。兄は伯爵渡辺千秋。
渡辺 国武 わたなべ くにたけ | |
---|---|
渡辺国武 | |
生年月日 |
1846年3月29日 (弘化3年3月3日) |
出生地 |
日本・信濃国諏訪郡東堀村 (現・長野県岡谷市) |
没年月日 | 1919年5月11日(73歳没) |
死没地 | 日本・静岡県伊豆市 |
称号 |
勲一等旭日大綬章 子爵 |
親族 |
渡辺政徳(父) 渡辺千秋(兄) 渡辺千冬(養子) 渡辺武(孫) |
第2・4・9代 大蔵大臣 | |
内閣 |
第2次伊藤内閣 第2次伊藤内閣 第4次伊藤内閣 |
在任期間 |
1892年8月8日 - 1895年3月17日 1895年8月27日 - 1896年9月18日 1900年10月19日 - 1901年5月14日 |
第4代 逓信大臣 | |
内閣 | 第2次伊藤内閣 |
在任期間 | 1895年3月17日 - 1895年10月9日 |
第6代 福岡県令 | |
在任期間 | 1881年8月12日 - 1882年5月11日 |
官選第6代 徳島県知事 | |
在任期間 | 1876年 - 1879年 |
官選第3代 高知県知事 | |
在任期間 | 1876年8月26日 - 1879年6月7日 |
生涯
編集生い立ち
編集1846年(弘化3年)3月3日、信濃国諏訪郡東堀村(後の長野県岡谷市)にて諏訪高島藩士の家に生まれた。父渡辺政徳は、武士が桃の節句に生まれたのでは具合が悪いということで、藩庁に端午の節句の5月5日生まれと届けている。両親と早く死別したため、兄の千秋とともに祖母の手によって養育された。10歳の時にコレラにかかるが、一命を取り留める。その後、藩校長善館に入り、読書や武芸に精進する。当初、同じ信州出身の兵学者佐久間象山に学ぼうと考えたが、象山が暗殺されたため、江戸藩邸に勤務しながらフランス語などを学ぶ。1868年(明治元年)、京都御所の警備のため藩主諏訪忠礼に従い上洛する。たまたま渡辺が門の警衛に当たっていたときに、大久保利通が鑑札無しで御所に入ろうとしたことを拒否したことが機縁となり、その職務忠実ぶりで目をかけられるようになる。
大久保利通に登用される
編集1871年(明治4年)、廃藩置県の後、伊那県出仕となる。大久保は当時伊那県知事で同郷の永山盛輝を通じ、千秋・国武兄弟を東京に呼び出して民部省勤務とする。1873年(明治7年)大蔵省租税寮7等、ついで6等出仕となる。渡辺は大蔵卿大隈重信、租税頭松方正義、地租改正局総裁の大久保の下、地租改正に取り組む。
征韓論をきっかけに自由民権運動が全国に澎湃とすると、1876年(明治9年)、渡辺は高知県に権県令として派遣される(当時の高知県は現在の徳島県域も含む)。渡辺は内務卿となった大久保に、あえて細かい現地の情報を伝えることはせず、1877年(明治10年)に西南戦争が勃発した際、高知県で西郷軍に呼応して挙兵する動きを押さえることに成功する。1878年(明治11年)に高知県令に昇るが、翌1879年(明治12年)、高知県内の郡合併が内務卿の許可なく行われたとして、責めを負って辞任する。
大蔵省復帰
編集渡辺は京都に引きこもり、その間に英語、フランス語、ドイツ語を学ぶとともに一切経を読破する。明治十四年の政変(1881年)によって渡辺に期待をかけていた松方正義が参議大蔵卿になり、そのこともあって福岡県令に就任し、官界に復帰する。1882年(明治15年)に松方によって大蔵省に戻り、調査局長、1886年(明治19年)主計局長を経て、1888年(明治21年)大蔵次官に就任する。
蔵相就任
編集1892年(明治25年)、品川弥二郎内相による選挙大干渉によって第1次松方内閣は総辞職した。その後を襲って第2次伊藤内閣が成立する。伊藤博文首相は、組閣に当たり維新の元勲の総出で内閣を組織したが、大蔵大臣には松方前首相の就任が有力視される中、下馬評を覆す形で渡辺が起用された。同年11月、第4帝国議会に政府は予算案を提出する。総選挙に勝利した野党は予算案に反対し、軍艦新造費全額削減と予算案の11パーセント減額修正を求め対立する。このときは明治天皇が6年間御内帑金30万円を下賜し建艦費に充てるという和協の詔勅を発布されたため、政府野党ともに矛を収めた。
1900年(明治33年)、伊藤博文が立憲政友会を結成すると、渡辺は政友会創立委員としてこれを助けた。同年、第4次伊藤内閣の蔵相に就任する。渡辺は緊縮財政のため、官業中止、事業の延期、酒税、砂糖税増税を実施しようとする。衆議院は大隈重信の憲政本党の賛成で通過するが、貴族院の反対にあい、明治天皇の詔勅で危機を脱した。しかし、明治34年度および明治35年度予算案編成に当たり、緊縮財政を主張して現在行われているものも含めた全ての公債発行事業の停止を提案した。政府・政友会は緊縮予算の必要性については認めていたが、そのために地方から政友会の代議士に寄せられていた陳情を星亨と原敬が必死に押し留めて、当時行われていた公債発行事業の完成を優先するという党内合意を取り付けた直後というタイミングだった。
これに対しては旧憲政党系閣僚だけではなく、西園寺公望や金子堅太郎、末松謙澄ら官僚系閣僚からも非難を受けて閣内で孤立した。こうして、第4次伊藤内閣は閣内不統一で総辞職することとなった。このとき渡辺は辞表を奉呈を拒否し、伊藤に辞表撤回を求めたが衆寡敵せず、内閣総辞職後に諭旨免官となった。
晩年
編集閣内不統一を引き起こしながら、辞表を拒否したことで渡辺は失脚し、事実上政界引退を余儀なくされた。それでも欧米を外遊後、日露戦争前後では対露強硬論を主張、戦争後もポーツマス条約反対を主張した。その後、脳卒中の発作を起こし一命を取りとめ、以後麻布の屋敷や伊豆の別荘で静謐な晩年を送った。1919年5月11日死去。73歳。墓所は多磨霊園と金地院にある。
渡辺は生涯独身を通し、兄・千秋の三男・千冬を養子に迎えた。千冬は衆議院議員、貴族院議員、司法大臣を歴任している。ちなみに、孫・武は初代財務官を務めた。
栄典
編集- 位階
- 勲章等
系図
編集渡辺政徳━┳渡辺千秋┳渡辺千春━渡辺昭━渡辺允 ┃ ┣(渡辺千冬) ┃ ┗渡辺千夏━野依金城━野依良治 ┗渡辺国武…渡辺千冬┳渡辺武 ┗渡辺慧
渡辺千冬は司法相、渡辺武は大蔵省財務官、渡辺慧は物理学者。渡辺千秋は伯爵となり 渡辺千春は銀行重役でその妻は大山巌の娘[14]、渡辺允は天皇侍従長を務めた。野依良治はノーベル化学賞受賞者。
脚注
編集- ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「渡辺国武」
- ^ 『官報』第1019号「叙任」1886年11月20日。
- ^ 『官報』第1635号「叙任及辞令」1888年12月10日。
- ^ 『官報』第2776号「叙任及辞令」1892年9月27日。
- ^ 『官報』第1791号「叙任及辞令」1889年6月20日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『官報』第2100号「叙任及辞令」1890年7月1日。
- ^ 『官報』第2357号「叙任及辞令」1891年5月12日。
- ^ 『官報』第3000号「叙任及辞令」1893年6月30日。
- ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
- ^ 『官報』第813号、「宮廷録事 - 恩賜並追賜」1915年4月21日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧(戦前の部)
- ^ 時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家時事新報 1916.3.29-1916.10.6(大正5)、神戸大学新聞記事文庫
外部リンク
編集公職 | ||
---|---|---|
先代 松方正義 松方正義 松方正義 |
大蔵大臣 第2代:1892年 - 1896年 第4代:1896年 - 1896年 第9代:1900年 - 1901年 |
次代 松方正義 松方正義 西園寺公望 |
先代 黒田清隆 |
逓信大臣 第4代:1895年 |
次代 白根専一 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
子爵 渡辺(国武)家初代 1895年 - 1919年 |
次代 渡辺千冬 |