根津嘉一郎 (初代)
初代根津 嘉一郎(ねづ かいちろう、万延元年6月15日[1](1860年8月1日) - 昭和15年(1940年)1月4日)は、日本の政治家、実業家。根津財閥の創始者でもある[2]。
ねづ かいちろう 根津 嘉一郎 | |
---|---|
根津嘉一郎 (初代) | |
生誕 |
1860年8月1日 山梨県 |
死没 | 1940年1月4日 |
国籍 | 日本 |
職業 | 実業家, 政治家 |
著名な実績 | 根津財閥の創始者 |
運動・動向 | 貴族院議員 |
子供 | 根津嘉一郎 (2代目) |
東武鉄道や南海鉄道(現・南海電気鉄道)など、日本国内の多くの鉄道敷設や再建事業に関わった[2]。「鉄道王」と呼ばれることでも有名[2]。
現在の武蔵大学および武蔵中学校・高等学校の前身である旧制武蔵高等学校の創立者[2]。
来歴
編集甲斐国山梨郡正徳寺村(現山梨県山梨市)に生まれる(しかしながら出生地を山梨郡平等村であるとする文献もある[1])。根津家は雑穀商や質屋業も営む豪商で、「油屋」の屋号を有していた。
『根津翁伝』によれば、明治10年(1877年)に山梨郡役所の書記として働いていたが、民権運動にも携わる。長兄・一秀の死により家督を相続し(しかしながら、家督を相続したのは1888年で、これは一秀が病弱だったためであり、1896年に病気が全快した一秀に家督を譲り渡したとする文献もある[1])、明治22年(1889年)には村会議員となった後、東京へ進出する。若尾逸平や雨宮敬次郎と知り合い、甲州財閥を形成する[2]。明治24年(1891年)には渡辺信、小田切謙明、佐竹作太郎ら名望家とともに鉄道期成同盟会を結成し、中央本線の敷設運動を行う。
第一徴兵保険会社や帝国火災保険、富国徴兵保険など保険会社の資金を運用し、東京電燈の買収などに関わる。明治38年(1905年)には東武鉄道の社長に就任し、当時「東武鉄道空引会社」と呼ばていた同社の経営再建に取り組んだ[2]。
その他にも嘉一郎は経営に行き詰まった企業を多く買収し、再建を図ったことから「火中の栗を拾う男」「ボロ買い一郎[2]」との異名や揶揄を与えられることもあった。資本関係を持った鉄道会社は25社に及び[3]、多くの会社において名誉社長などに就任した。その中の数社には同じ甲州出身の早川徳次を送り込み、経営を任せて再建している。
明治37年(1904年)以降、衆議院議員を連続4期務めた他(憲政会)。大正元年(1912年)には帝国火災保険株式会社を設立し初代社長を務めた[注釈 1]。
大正15年(1926年)12月7日より貴族院勅選議員となり[6][2]、研究会に所属し死去するまで在任した[7]。
「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」という信念のもと、教育事業も手がけ大正11年(1922年)に旧制武蔵高等学校(現在の武蔵大学、武蔵高等学校・中学校)を創立した[2]。
人物
編集嘉一郎は茶人としても知られ、「青山」と号して茶道を嗜み、多くの茶道具や古美術を蒐集している。甲州財閥をはじめとする実業家は茶道を嗜む人物が多く、彼らは茶会を古美術の鑑賞目的以外に、情報交換の場として利用した。
また嘉一郎は生前から宮島清次郎(日清紡績会長)の紹介で吉田茂の面識を得ていたが、死後、遺族に課税されるはずだった莫大な相続税を、東京財務局長の池田勇人が特例で美術館への寄贈名目として免除した。このことに感激した嘉一郎の遺族は吉田に推薦して、池田を大蔵大臣に就任させた。これが後の池田内閣成立の重要な基礎となったのである。
東武鉄道への経営参加
編集晩年に経営者となった東武鉄道との関係は、明治38年(1905年)に780株を取得したことから始まる(しかしながら、1902年9月に160株を取得し1905年には1,000株、1909年下期の増資時2万株とし株式総数に占める割合を18.9%へと高めた、とする文献もある[8])。これは嘉一郎が当時所有していた他の鉄道会社の持株数に比べるときわめて少ないものであり、当初経営への参加は当然行っていなかったが、赤字続きだった東武鉄道からの要請もあって経営に参加し路線延長や東上鉄道との対等合併を推進するなどその手腕を発揮した。延長した路線は1903年4月に川俣まで1907年8月に足利までであり、営業収入の増大をもたらした[9]。
しかし、嘉一郎は昭和に入る頃まではまだ東武鉄道の経営が主な仕事となっておらず、なおも投資家として資本参加した南海鉄道、京浜地下鉄道、南朝鮮鉄道をはじめとする全国の鉄道の取締役に就いていた。
嘉一郎の没後、長男の藤太郎が2代目嘉一郎を名乗り、東武鉄道の経営を引き継いだ。また2代目嘉一郎の退任後、社外出身社長の時代を経て孫に当たる2代目嘉一郎の次男にあたる嘉澄が1999年から2023年まで社長を勤めた。
栄典
編集脚注
編集- 注釈
- 出典
- ^ a b c RailwayHistoryReview 1987, p. 1.
- ^ a b c d e f g h i j 『日本のリーダー 7 (実業界の巨頭)』ティビーエス・ブリタニカ、1983年、23-66頁。doi:10.11501/12255596。
- ^ 嘉一郎の関係した鉄軌道は『東武鉄道65年史』、593-595頁から以下の会社名を挙げられる。1899年房総鉄道取締役、1901年東京馬車鉄道監査役、1902年東京市街鉄道取締役、1902年東京鉄道取締役、1905年東武鉄道取締役、1909年京津電気軌道取締役、1910年富士身延鉄道取締役、1910年武蔵電気鉄道取締役、1911年宇和島鉄道相談役、1911年東上鉄道社長、1912年高野登山鉄道社長、1912年横浜鉄道取締役、1913年大湯鉄道取締役、1915年横浜電気鉄道取締役、1917年、高野大師鉄道社長、1921年東京地下鉄道取締役、1921年南海鉄道取締役、1921年西武鉄道取締役、1922年秩父鉄道取締役、1926年大社宮島鉄道社長、1927年南朝鮮鉄道社長
- ^ 日本火災海上保険 1995.
- ^ 『日本火災海上保険』 - コトバンク
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、36頁。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』150-151頁。
- ^ RailwayHistoryReview 1987, p. 3.
- ^ RailwayHistoryReview 1987, p. 3-5.
- ^ 『官報』第3440号「叙任及辞令」1924年2月14日。
参考文献
編集- 『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房 2001年 104-115頁
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 齋藤康彦『根津青山「鉄道王」嘉一郎の茶の湯』宮帯出版社、2015年。
- 「根津嘉一郎と東武鉄道会社の経営再建」『鉄道史学』第5号、鉄道史学会、1987年10月、ISSN 0913-9591。
- 日本火災海上保険『日本火災海上保険株式会社百年史』《資料編》渋沢社史データベース、1995年 。
- マンガふるさとの偉人「初代根津嘉一郎の生涯」 発行 山梨県山梨市 山梨市教育委員会 2024年3月 https://www.bgf.or.jp/bgmanga/318/
関連項目
編集関連人物
編集外部リンク
編集- 東武鉄道株式会社
- 根津嘉一郎(初代)墓所
- 第二十八議会衆議院議員写真列伝(国立国会図書館近代デジタルライブラリーより)根津嘉一郎略歴および肖像
- 根津嘉一郎|近代日本人の肖像(国立国会図書館) - 肖像写真および略歴
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|