川崎八右衛門
川崎銀行の創始者
川崎 八右衛門(かわさき はちえもん、1835年1月11日(天保5年12月13日)[1] - 1907年(明治40年)1月13日)は、東京川崎財閥の前身である川崎組、川崎銀行の創始者である。従五位。
経歴
編集天保5年12月13日(1835年1月11日)、現在の茨城県東茨城郡茨城町海老沢(涸沼西海岸)に生まれる。初名を縫殿助(ぬいのすけ)、諱は守安。川崎家は回漕問屋を営むかたわら、郷士待遇で水戸藩に仕えていた[2]。水戸藩第2藩主徳川光圀の時代に取り立てられ、代々30石の家禄を受けるこの地方の名門であった。
嘉永2年(1849年)数え年16歳で、家業の回漕問屋を継ぎ、八右衛門を襲名する。翌年、現在の水戸市成沢町の私塾「日新塾」(加倉井砂山開設)に入門し、砂山の次女である香蘭と結婚する。幕末には、財政逼迫に苦しむ水戸藩の鋳銭事業に取り組む。「水戸藩鋳銭座取扱い役」「警視庁御用金為替取扱方」などを経て、明治7年(1874年)、東京・日本橋に「川崎組」を興した[2]。家業である廻船事業をはじめ、明治後は北海道開拓に従事、鉱山経営、川崎銀行設立と事業を拡大し、後の川崎金融財閥の基礎を作った。
官庁の為替業務を扱っていた川崎組は、明治13年(1880年)の銀行条例の発布により「川崎銀行」となり、1906年に持株会社の定徳合資会社を設立し、千歳商会と共済会がこれを助けて傘下事業を統轄、1907年に跡を継いだ八右衛門(財閥総帥として2代目)によって国立第百銀行、川崎貯蓄銀行、東京貯蔵銀行などを合併し、昭和初期には八大財閥の一角を占めるに至った[2][3]。