本多忠如
江戸時代中期の大名
本多 忠如(ほんだ ただゆき)は、江戸時代中期の大名。遠江国相良藩3代藩主、陸奥国泉藩の初代藩主。官位は従五位下・越中守。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 正徳元年(1711年)9月 |
死没 | 安永2年10月15日(1773年11月28日) |
改名 | 時之助(幼名)、忠如 |
別名 | 壷山、子樟、沖翁 |
戒名 | 藻真院沖翁玄宜 |
墓所 | 東京都文京区湯島の麟祥院 |
官位 | 従五位下・越中守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗→家重 |
藩 | 遠江相良藩主→陸奥泉藩主 |
氏族 | 本多氏(平八郎家) |
父母 | 父:本多忠直、母:稲垣氏 |
兄弟 | 忠通、忠村、忠如、忠烈、土井利庸正室、米倉忠仰正室、戸田忠久正室 |
妻 |
正室:松浦篤信の娘・吉子 側室:山田氏 |
子 | 忠籌、隈五郎(次男)、忠貫(三男)、房子(長女、山口弘倉正室)、八百子/民子(四女、甘南正矩室) |
略歴
編集正徳元年(1711年)9月、大和国郡山藩主・本多忠直(相良藩初代藩主・本多忠晴の長男)の3男として誕生した。享保6年(1721年)、実兄である第2代藩主・忠通の死去により家督を継いだ。
延享3年(1746年)9月25日、遠江を本拠地とする日本左衛門と名乗る盗賊の取り締まりになおざりがあったとして陸奥泉藩へ移封された。宝暦4年(1754年)8月29日、長男の忠籌に家督を譲って隠居し、安永2年(1773年)10月15日に死去した。享年63。
著書に「壷山集」がある。
系譜
編集父母
正室
- 吉子 ー 松浦篤信の娘
側室
- 山田氏
子女
脚注
編集- ^ 別名は民子