本多忠村
本多 忠村(ほんだ ただむら)は、江戸時代中期の大名。大和国郡山藩の第4代藩主。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝永7年(1710年) |
死没 | 享保7年9月30日(1722年11月8日) |
改名 | 唐之助(幼名)、忠村 |
戒名 | 玉巌院霊光智照大童子 |
墓所 | 東京都文京区湯島の麟祥院 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 大和郡山藩主 |
氏族 | 本多氏(平八郎家) |
父母 | 父:本多忠直、母:石井氏 |
兄弟 | 忠通、忠村、忠如、忠烈、土井利庸正室、米倉忠仰正室、戸田忠久正室 |
略歴
編集第3代藩主・本多忠直の次男。母は石井氏。幼名は唐之助。
享保2年(1717年)、父の死去により跡を継ぐ。幼少のため、幕府は郡山の重要性から忠村を別の領地に移封しようとしたが、第8代将軍・徳川吉宗が許したため、移封を免れた。享保7年(1722年)9月晦日、天然痘のため江戸で死去し、跡を弟・忠烈が継いだ。享年13。墓所は東京都文京区湯島の麟祥院。
松浦清(静山)の『甲子夜話』によれば、忠村の死に際し、吉宗が「天然痘というものは、ずいぶん容貌が変わるそうだ」とたびたび語っていたという。これは、他の人物を忠村ということにしてすり替えても分からない、と暗にすり替えを勧めていた[1]のではないかとされるが、本多家中の者は忠村の死をそのまま幕府に報告したため、減封の上で幼少の弟・忠烈に継がせることとなった[2]。
脚注
編集- ^ 18世紀中ごろ以降には他家において行われた例が見られる。末期養子#藩主のすり替えの例を参照。
- ^ 氏家幹人『旗本御家人―驚きの幕臣社会の真実』(洋泉社歴史新書y 2011年) 85-86頁