本多忠晴
江戸時代前期から中期にかけての旗本・大名
本多 忠晴(ほんだ ただはる)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本・大名。陸奥国浅川藩2代藩主、三河国伊保藩主、遠江国相良藩初代藩主。官位は従五位下・弾正少弼。忠以系本多家2代。文武両道の名君だったと言われている。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛永18年(1641年) |
死没 | 正徳5年4月12日(1715年5月14日) |
別名 | 通称:吉左衛門 |
戒名 | 清源院殿祥岳道麟大居士 |
墓所 | 静岡県牧之原市波津の宝泉寺 |
官位 | 従五位下・弾正少弼 |
幕府 | 江戸幕府 大番頭→奏者番兼寺社奉行 |
主君 | 徳川家綱→綱吉→家宣→家継 |
藩 | 陸奥浅川藩主→三河伊保藩主→遠江相良藩主 |
氏族 | 本多氏(平八郎家) |
父母 |
父:本多忠義、母:森忠政の娘・法光院 養父:本多忠以 |
兄弟 | 忠平、忠利、忠以、忠晴、忠周、忠常、忠寄、清性院、井上正任正室、金森頼直正室、心涼院、清殊院、石川総良側室、勢幾、松平忠倫正室 |
子 |
忠直 養子:忠通 |
生涯
編集寛永18年(1641年)、江戸で本多忠義の四男として誕生した。
寛文2年(1662年)11月25日、陸奥白河藩主である長兄の忠平から2500石を分与された。寛文4年(1664年)に三兄である陸奥浅川藩(1万石)の初代藩主・忠以の死去により、その跡を継いだ。同年12月28日、従五位下・弾正少弼に叙位・任官される。
天和元年(1681年)に三河国伊保に移封され、元禄5年(1692年)に大番頭となる。元禄15年(1702年)に奏者番と寺社奉行を兼任する。宝永2年(1705年)には7000石を加増された。宝永7年(1710年)、遠江国相良へ移封された。
正徳5年(1715年)4月12日に死去した。享年75。長男の忠直は大和国郡山藩主となったため、忠直の長男である忠通が跡を継いだ。
系譜
編集父母
子女
- 本多忠直(長男)
養子