生活世界の構造 (ちくま学芸文庫)
晩年の廣松渉はシュッツをくわしく研究し、『現象学的社会学の祖型』というシュッツ論まで書いた。彼の主著『存在と意味』の第2巻はこれを基礎にして社会理論を構築する予定だったが、未完に終わった。本書はシュッツの遺稿をルックマンが編集した大著(前半)の初訳である。

私の学部の卒業論文も、シュッツの原著をベースにした「経済的世界の現象学」というもので、青木昌彦氏にはほめてもらったが、浜田宏一氏は「まったく理解できない」とコメントした。

シュッツはフッサールの弟子で、一時はその後継者とも目されていた。彼の理論は、後期フッサールの「生活世界」の概念を社会学に応用するもので、今でいうと行動経済学の基礎理論のようなものだ。その中心概念であるレリヴァンスは人々の認識を制約する枠組で、カーネマンのいう「フレーム」に近い。

ただシュッツのアポリアは、そのレリヴァンスがどうやって間主観的に決まるのかというメカニズムをうまく説明できないことだった。廣松はそれを役割理論で説明しようとしたが、その役割はどうやって決まるのか――というループに陥ってしまう。いま行動経済学が行き詰まっている背景にも、同じような基礎理論の欠如がある。
私の印象では、シュッツや廣松はレリヴァンス(あるいは共同主観性)のできるメカニズムを抽象的に一般化しようとしたところに行き詰まった原因があると思う。カーネマンもいうように、システム1は文化的に形成されるので、それぞれの文化に依存する。もちろん発話能力のように遺伝的に決まっている要因もあるが、大部分は(行動経済学の実験で示されたように)環境で決まる。

つまりウォーラーステインもいうように、社会の枠組は歴史的な経路で決まるので、今後の社会科学の中心は歴史学だともいえる。これはピケティもいっていたが、経済学もニュートン力学のまねごとはやめて、歴史学を勉強したほうがいい。

ただ歴史学にも問題があって、これまでは一次史料を参照しないと学問的業績とみられない不文律があったため、ウォーラーステインのような仕事(彼は1次史料は見たことがないといっている)はディレッタンティズムとみられ、非常に細かい分野で新史料を発掘することが歴史学者の主な仕事だった。

そういう仕事も成熟してきたので、これからは政治や経済の進化のパターンを発見することが社会科学の一つの活路ではないか。歴史的に形成される「古層」は、その進化をたどると、それなりの必然性がある。シュッツの理論は、それを考えるヒントになるかもしれない。