『須磨源氏』
能『須磨源氏』を観ました(2018年2月4日、宝生能楽堂での『立春能』のトリ)。
シテの柏山聡子さんとは旧知の仲で、豊島区管弦楽団でのかつての音楽仲間。彼女はコントラバスを、私はヴィオラを弾いていました。そんな彼女が東京藝大の邦楽に進み、能楽師になったことは知っていましたが、なかなかタイミングが合わず今回漸く鑑賞出来た次第。
『須磨源氏』は、死んで極楽浄土にいる光源氏が、老人に扮して天降り、やがて嘗ての「光る君」の姿となって青海波に惹かれ舞う、というお話。
能舞台を客観的に受容するには余りに物を知らなさ過ぎるので、エラそうなことは何も書けないのですが、とても感動しました。国文学者であった父を通して「何となく」薄い知識だけはあった『源氏物語』。その光る君が、柏山聡子という能楽師を依代として、眼の前で謡い、舞ったという体験は、個人的には少なからぬ意味を持ちました。
少しウェットなことを書くのを許してもらえば、老人から「光る君」となって再登場した光源氏が「あら面白の海原やな。」と言った時、亡き父が感じ思索を巡らせていた世界と、少しだけですが繋がったような気がしたのです。
終演後、まだ上気した顔の聡子と会った際、彼女が私を見て開口一番に言ったことは、「(私〔=野口〕のやっていることと)通ずるところがあるでしょう?」。何だか、活動している世界は違っても、目指そうとしているものが一緒だというのは、こういうことなんだな、と感じました。「言葉はいらない」。お互い、こんなに言葉に向き合っているのに(笑)。今度、是非ゆっくり会って話そうねと言って別れました。
本当は光る君の雄姿を撮りたかったのですが、ちょっとそういう状態ではなかったので(^_^;)、3年前に私の朗読コンサートを聴きに来てくれた時の写真をこちらに。聡子、お疲れさまでした。どうもありがとう。
(2018/02/04)
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