青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

芝山努『ドラえもん のび太のパラレル西遊記』

f:id:hiko1985:20150209232916j:plain
神保町シアターで開催されている「ドラえもん映画祭」にて『ドラえもん のび太のパラレル西遊記』を観てきました。この時期(所謂オレンジタイトル時代)のドラえもんアニメは、台詞と声優の演技がとにかく面白い。今作においても、のび太のコメディアクターぶり、ジャイアンとスネ夫の漫才のような掛け合いなど、笑いのセンスが冴え渡っている。ドラえもんの「危険が危ない!」という珍台詞も有名だ。音楽もいいのだ。サックスが切り裂く「君がいるから」はドラ映画主題歌きってのかっこよさだし、"ヒーローマシーン"という秘密道具内でのBGMはファミコン世代に直撃なエセアジアンテクノ風。

今作は1988年に公開された映画シリーズ9作目にあたります。藤子・F・不二雄(ちなみに今作のクレジットはコンビ解消後1年しか使用していなかった”藤子不二雄Ⓕ”なのです)が病に伏していた為、存命中唯一のシンエイ動画オリジナルの作品なのだ。大役を任された芝山努ともとひら了は、F先生のテイストを損ねる事なく、独自の色合いをより濃く打ち出している。ちなみに脚本を担当したもとひら了が、のび太のクラスで催される予定の劇「西遊記」の脚本を担当する”もとひら君”という生徒としても登場するという遊び心も。監督の芝山努のドラえもん映画における演出は、F先生の中にある"恐怖"の部分にフォーカスした手法が特徴だ。ドラえもんと"恐怖"という組み合わせにピンと来ないという方もいるかもしれないが、『のび太の海底鬼岩城』『のび太の魔界大冒険』『のび太と鉄人兵団』といった傑作群を観た事のある方は、あの独特の不穏さを思い返しニヤリとするだろう。幼心にも何かしらの"しこり"を残す不気味さがあった。芝山監督のそういった演出が最も冴え渡っているのがこの『のび太のパラレル西遊記』なのである。

タイムマシンで7世紀の中国から帰ってくると、見慣れたはずの風景がどうもいつもと違う。空は厚い雲に覆おわれ、コウモリが不気味に飛び交っている。野比家の食卓に並ぶのは蛙と蛇の唐揚げにトカゲのスープ。ドラえもんとのび太の布団カバーは骸骨とコウモリの模様に変わっている。校舎の時計は怪物の像に変わり、咲き誇っていたはずの桜は枯れ、チャイムの音色も気味悪く変容している。どうやらこれらは全て、ドラえもんの出した”ヒーローマシーン”という道具から飛び出した妖怪の仕業らしい。妖怪たちは7世紀の中国から歴史を改変してしまったのだ。秀逸なのは”妖怪”という現象の演出だろう。母親が階段を登ってくる足音、食事時も新聞に読みふける父親のシルエット、根本的に話が噛み合わない友人、理不尽な説教をする教師・・・こういった日常に潜む負の要素を、”妖怪”という形で可視化してみせる。F先生が日常の延長上に展開した「SF(すこしふしぎ)」の精神を、”恐怖”に置き換えて見事に踏襲している。


そして、脚本のプロットの素晴らしさ。今作では"名前"を巡る演出が頻出している。事の始まりはクラスで行われる出し物の劇「西遊記」におけるのび太の役どころである。「西遊記をやろう!」と提案した張本人にも関わらず、台詞一言の"村人その2"、役名すら与えられないその他大勢の1人である。しかし、のび太はどうしても"孫悟空"の役がやりたい。ここが物語の起点なのである。では、妖怪の対処方法はどうだったろうか。”名前”を呼んで返事をした相手をヒーローマシーンに吸いこんでしまう、という手法だったはずだ。これは妖怪・金角の武器であるひょうたんも同じ構造。ドラえもんとのび太による「孫悟空のび太そっくり説」の画策も、ジャイアンの「おい、のび太」という呼びかけに孫悟空が応えてしまった事で、頓挫する。「ぼく(=孫悟空)の事知らないの?」「えっ、ぼくの事知ってるの!?」と一喜一憂する劇中ののび太の姿も印象的だ。このように、”名前”に関する演出を反復しながら、ラストの

僕の名前は斉天大聖孫悟空だ

に辿りつく。すなわち、『のび太のパラレル西遊記』とは、匿名に埋もれた冴えない少年がその固有性を得るまでの物語なのである。