twitterではさまざまな話題が流れてくるので、きっかけをもらえるのは腰の重い私にはとてもありがたい。この記事は、すばらしい『∀ガンダム』語りに触発されて、twitter上でつぶやいたものを仕立てなおしたものです。

『∀ガンダム』最終話エピローグの、さらに限られたわずかな場面についてだけのお話。

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『∀ガンダム』最終話「黄金の秋」


『∀ガンダム』のラストは、『月の繭』が流れる中で展開される奇跡的なエピローグ。
その中で、月の女王ディアナ・ソレルと静かな生活を送ることになるロラン・セアックと、彼が仕えるハイム家のお嬢さんソシエ・ハイムとの別れが描かれる。

ちょっと参照として、YouTubeで動画を探してみた。


※あくまですでに見た方への確認用として。未見の方はここだけ見ても無意味なので本編を見ましょう。

冬の雪夜の別れのシーン。
ハイム家の門前に停まっている車と2人の人影。
ひとりは、別れを告げにきたロラン。
もうひとりは、泣きじゃくるソシエ。
ロランは、ソシエにキスをする。
ソシエは涙を流しながらそれを受ける。
やがてキスが終わり、涙が止まらないソシエを残して、ロランは車に乗り、ディアナと共に去っていく。

この場面について、制作者ご本人である富野監督の著書『∀の癒し』にはこんな記述がある。

ロランは、キエルさんに憧れを感じていたし、ディアナ様を尊敬もしていた。
そして、ソシエを愛おしくおもっていた。
そして、ソシエにはそれがわかったから、ロランをディアナ様にあげたのだ。

そのディアナ様は、ロランとソシエを十分に知っていても、最後の自分を見取ることをロランに頼んだ。許したのではない。頼んだのだ。

なぜなんだろう?それは、永遠の疑問ではない。簡単な理由だ。

ディアナの本当の初恋の相手が、きっとロランに似ていた少年だったからだろう。
人間などというものは、そんなものなのだろうとおもう。
それは、つまらないことなのだろうか?
そうではないと伝えたいのが、『∀』という物語なのだ。

(この引用は、記事を書くきっかけを与えてくれた@225_nifnifさんの提供でお送りしております。)


私も『∀の癒し』を読んだのでこの箇所も読んだけれど、「そうだったのか!」という新たな発見ではなく、「そうだよね。そうしかないよね」という確認だったことを覚えている。
それは私に物語を鋭く読み取る力があったわけではなく、富野監督がつくった『∀ガンダム』のフィルムが、伝えたいことをごく当たり前のように私たちに伝えてくれていた、ということだ。

『∀ガンダム』のDVDなど映像が手元にないので、なかなか見返すことができていないのだけれど、ここでは逆にそれを幸いとして、できるかぎり初見時の記憶や印象を思い出しながら「別れのキス」の話をしてみましょう。

ソシエ、涙とキスには終わりがないと知る。


「別れのキス」と書いているように、この場面でロランが何をしたかといえば、キスをしたのだ。
これから別れるソシエとキスをした。ただし、これから共に暮らすディアナの目の前でね。

私自身、エピローグ中でもっとも感動したのがここ。

黄金の秋

キスとするロランとソシエ、そして車中のディアナが同フレームにおさめられているカット。

「ちょっとまって!ソシエと別れてディアナを選んだのに、なんで、そのディアナの目の前で他の女(ソシエ)とキスするわけ?」


と、『∀ガンダム』を見ていない人はもしかすると思うかも知れない。
しかし、この場面へたどりついた多くの人にその疑問はないはずだ。

私もディアナ・ソレルの目の前で、ソシエに別れのキスをするロランを見た瞬間に、

「もうこのロラン・セアックにすべてを任せていい」

と心の底から思った。

それはもちろんディアナ様のことであるし、ソシエお嬢さんに対してでもある。
私がディアナ親衛隊であろうと、ハイム家下男であろうとそう思ったんじゃないかな。
この心の動きはとても印象的だったので、よく覚えている。

フィルム上の処理か、ロランの意思か


もちろん限られた時間しかないエピローグの処理として、できるかぎりカットを整理するような実利的な側面もあったとは思う。しかし実利的な問題だけでなく、物語を豊かにするためにはあの処理しかないように私には思える。

そもそもこの一連のシーンでは、車中のディアナの存在が伏せられたまま、ロランとソシエのキスがはじまっている。
その後、2人がキスしたままカメラが右にパンして(振られて)、はじめてディアナが画面に登場するという処理がなされている。

「ディアナの目の前でされたキス」をサプライズとして強調したような形で、初見の視聴者に対しては、キスの後にディアナの存在を知るように画面はつくられている。

だが当の本人であるロランはもちろん自分が車に乗せてきたディアナの存在は知らないわけがない。
つまりロランは全て承知の上で、あの別れのキスをしたことになる。

だからフィルム上の処理の問題だけでなく、ロランの意思と考えてあげないと、別カットにせず、キスから右にパンして、ディアナを同じフレームに入れたことの意味が弱くなると思うんですよね。
つまりはそこが物語が豊かになるかどうか、というところなんですが。

代償として、受けるべきカット


ロランが、異性として、もっとも愛しく大事な女の子はソシエ・ハイム。
地球で隠遁するディアナ・ソレルは、それも恐らく知っての上で、ロランに自分を看取ることを頼む。
それは、責任を果たして肩の荷から下ろした彼女が人生の最期でする「わがまま」だが、無論そのことも承知の上だろう。

ロランはディアナの願いを聞き入れる。そうなると、ソシエとはお別れをしないといけない。

そして別れのとき。
誠実なロランくんはちゃんとディアナの目の前で、泣いているソシエにキスをするんですよね。

このとき、目の前でそれがされることの意味をちゃんと分かっているディアナは車中でそっと視線をはずしている。なぜなら、目の前でされるそのキスを受けた上で視線をはずすのが、彼女にできる最大の礼儀だから。

三人模様の絶体絶命で、はっきりカタをつけたときに起こる、三者三様の立場と心と行動の織りなすグラデーション。

これしかありえないと私には思えますが、ディアナの目の前でのキスを考える上で、たとえば、ソシエとの別れのキスと、視線をはずすディアナのカットを分けてしまうとどうなるでしょうか。
これを実際のシーンとは別パターンのパターン(B)としてみましょう。

パターン(B)

ロランとソシエのキスのカット

車中での、ディアナが横を向いているカット


こうするとニュアンスが変わりますね。
「画面手前でキスをする2人と奥の車中で視線をはずすディアナ」という1カットとは意味が変わってしまうと思います。

もっと極端にしてみましょうか。
車中にディアナを待たせてるのはそのままにして、ディアナに見えないところで、ソシエとキスをするロランを想像してみてください。

パターン(C)

(例えばハイム家邸内で)ロランとソシエのキスのカット

車中での、ディアナが横を向いているカット


こうすると、もっと意味が変わってきますよね。
本編含めて3パターン。どのロランくんがいいですか?

パターン(B)もパターン(C)も「ロランとソシエがキスをし、ディアナが待つ」ということは変わりませんが、意味は変わってきてしまいますね。

私はこの場面を「ディアナがわがままの代償として受けるべきカット」だったと考えていますので、パターン(B)も(C)も私にはありえません。どうしても1カット内におさめる必然がありました。

富野監督は、ロランをディアナの目の前でキスをする人間としたし、そのキスシーンからディアナが逃れることを映像的に許さなかった。そしてディアナにそれをきちんと受け止めさせた上で視線をはずさせた。

シーンを演じる演者(キャラクター)も、それを構成する監督も見事としかいいようがない。

私はこのシーンをこう考えているので、

「ソシエとディアナがいて、ロランがディアナを選んだ。捨てられたソシエかわいそう!」


と言っている人をたまに見かけると、そんな単純なことじゃないし、男性主人公が2人いる女性(ヒロイン)のうち、1人を選ぶというような、男性主体の選択の話でもないよ、と、いつも思います。

そもそも、男性主人公が複数いるヒロインから「第一ヒロイン」を選ぶ話、というのは『ザブングル』の時点でとっくに否定されていますけどね。否定というかそういう構図自体がぶっとばされている。
そのことは以前、記事にも書いたことがあります。

惑星ゾラで生きるための、たったひとつのルール。<"異世界もの"としての戦闘メカ ザブングル>

「黄金の秋」から「白銀の冬」へ


別れのキスでソシエから借り受けたロランと、隠遁するディアナ様の「黄金の秋」生活というか、正確にいえば秋のあとの最後の最後の「白銀の冬」パートもあんなに短いのに本当にすばらしい。

いくつかのカットと、いくつかのセリフだけで、完全に老婆を表現しているのもすばらしいし、なにより最後のセリフが「ディアナ様、また明日」であることがすごい。

ロランとディアナは、あとどれだけあるかわからないけど、「また明日」の価値を誰よりも知っているんだよね。
覚悟を決めているともいえる。だから、あれは「おやすみなさい」ではなく、絶対に「また明日」でなければならない。
散歩にいき、お茶を飲み、釣りをし、ロラン特製のおいしいスープを飲む、いつもどおりの明日。

しかもそのあとに、TV版だと最終回ED曲「限りなき旅路」が流れます。
ディアナのおやすみカットで終わって、限りなき旅路です。限りなき、旅は、つづく、です。

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(このジャケットの2人の笑顔が全てだと、いつも思う。)

だから、私は『∀ガンダム』の最終回が終わった「その後」については、1秒だって必要ありません。
あれは、いつか絶対に終わることが保証されている「時間限定の永遠」でいい。

それは「終わらない幸せな日常」世界への逃避ではなく、フィクションから一切の未練なく帰還するための手続きのように個人的には思います。
この世界は私が干渉(妄想をたくましく)する必要がなさすぎる。
私にとって『∀ガンダム』は、世界に一切の未練なく現実に帰還できる稀有な作品なのです。

そのあたり良し悪しの問題ではなく、あくまでフィクションの対比としてですが、なかなか物語から帰還できない構造にしている『エヴァ』と並べて考えると面白いと思っています(『エヴァ』は1回は作品世界から帰ってこれない方が体験としては面白い)。が、これはまた別の話ですね。

というわけで、語ってきましたが、『∀ガンダム』最終話エピローグのわずかな部分に過ぎません。
セリフがほとんどなくても、歌と映像が雄弁すぎるほど語ってくれていますので、意図的に幅を持たせるためにぼかしているところ以外は、妄想解釈をあまり入れる必要はないエピローグではないでしょうか。

だからここに書いたことは、皆さんも同じように感じたはずのごく普通の感想なんじゃないかな、そうであるといいな、と思っています。

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『∀ガンダム』から見える「物語の景色」<「黄金の秋」補遺拾遺>

この記事の補遺拾遺として、いくつかのこぼれ話や連想などを集めたものです。宜しければどうぞ。
主なトピックは、「ディアナ妊娠説」「ディアナ=キエル 入れ替わり完全犯罪」「恐怖のハイム家」などです。
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Re: 惑星の午後、僕らはキスをして、月は僕らを見なかった。<『∀ガンダム』最終話「黄金の秋」より>

∀の登場人物のその後は、過不足なく語られているので、何を付けたしても蛇足になってしまいますね。

∀が終わった時は落ち込みましたが、当たり前に生きる事の大切さを学んだ気がしました。
あとは最終話が放送延期で一ヶ月待たされたのと、フジテレビに電話をかけた事と、限りなき旅路をカセットで録音して昼休みに全校放送したことだけ鮮明に覚えています。
まとまってない感想ですいません。

Re: Re: 惑星の午後、僕らはキスをして、月は僕らを見なかった。<『∀ガンダム』最終話「黄金の秋」より>

コメントありがとうございます。

> ∀が終わった時は落ち込みましたが、当たり前に生きる事の大切さを学んだ気がしました。

夜が過ぎれば「明日」がくるし、月は欠ければまた満ちてきて、冬のあとは春がきてまた黄金の秋が来ますからね。リングなので、旅は限りないことになりますよね。

> あとは最終話が放送延期で一ヶ月待たされたのと、フジテレビに電話をかけた事と、限りなき旅路をカセットで録音して昼休みに全校放送したことだけ鮮明に覚えています。

昼休みに全校放送はいい話ですねえ。

素晴らしい考察です。

 ほぼワタシも同じ感想です。ターンAで尤も印象に残っているこのシーンをふと観たくなり検索してたら辿り着きました。これは、ロランのソシエに対する最大の敬意であると思います。切な過ぎるソシエがターンAで1番印象に残ったキャラです。このシーン、カットの意味は本当に深いと思います。

Re: 素晴らしい考察です。

コメントありがとうございます。
ターンAでは、主人公ロランが特殊な立ち位置なため、ソシエが通常ガンダムの主人公が通るような道を通過しています。そのため多くの悲劇に見舞われますが、その分、大きく成長するのも彼女です。
最終回のラストの主役のひとりですね。立派なヒロインです。

限りなき旅は続く

 あのシーンを観て、「ああ、ターンAの主人公はソシエだったんだ・・」
て思った記憶があります。あのシーンの後にもソシエが何気無い表情で日常を過ごしてるカットがあったかと思います。
 過酷な体験でしたが、ソシエの人生は、物語は続いていきます。

 そして、それはTVの前の私達にも言える事なんです。

消去法を取り入れたこんな糞回どこがいいんだよいつものぶん投げの富野じゃん

時間が経って反撃がないだろうのを見越してこう言う↑のような品の無いコメントを残す何も産み出さないヤツがいるのはホント笑う。

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