日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

なぜ『はだしのゲン』を閲覧制限していけないのか?

「図書館の自由に関する宣言」という文章があることをご存じでしょうか。1954年に、日本図書館協会が決議採択したものです。骨子となる主張は、次のようなことです。《すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利がある。この権利を保障することは、知る自由を保障することである。図書館は、このことに責任を負う機関である。》全文はこちらから読めます。
http://www.jla.or.jp/portals/0/html/ziyuu.htm

どうして図書館は、知る自由を守らなければならないのでしょうか。それは、知る自由が考える自由、発言する自由と結びついているからです。あるものごとが正しいのかどうか、判断するためには、材料が必要です。自分の目で見、自分の頭で考え、自分の口で発言するためには、そうした活動を支える情報が必要です。

図書館に置かれたある資料が「閲覧制限」されるということは、私たちのもつ知る自由、考える自由、発言する自由が制限されてしまうということです。大切なのは、判断する機会そのものが奪われてしまう、ということです。そこで書かれていることが正しいのかどうか、適切なのかどうか、議論をする土台そのものが奪われる、ということです。

「図書館の自由に関する宣言」のなかには、次のような一文も含まれます。「わが国においては、図書館が国民の知る自由を保障するのではなく、国民に対する「思想善導」の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない。図書館は、この反省の上に、国民の知る自由を守り、ひろげていく責任を果たすことが必要である。」

また次のようにも言います。「図書館は、正当な理由がないかぎり、ある種の資料を特別扱いしたり、資料の内容に手を加えたり、書架から撤去したり、廃棄したりはしない。」

『はだしのゲン』の問題は、小さなことのように思えますが、挑戦されているのは、私たちが自然なものとして享受している「自由」です。松江市の小中学校図書室において、制限が続行されてしまうことは小さな事件かもしれませんが、これが「ふつう」になってしまう社会は、とても危険な社会であることを、私たちは自分に言い聞かせなければなりません。この場合、年齢は関係ありません。こどもたちにでさえ、いやこどもたちにとってこそ、「図書館の自由」は必要だからです。

図書館で本に出会うこと。それは求めていた出会いかもしれないし、偶然の出会いかもしれません。しかし、本に図書館で出会えること──気軽に、障壁なく、誰でも、自由に──が、どれだけ私たちの心や、社会を豊かにするでしょうか。

その表現が気に入らないのならば、読んだうえで非難すればいい。その表現が大切だと思うならば、読んだうえで守ればいい。そしてその議論を聞く人たちも、読んだうえでどちらの意見が正しいか判断すればいい。読めないことは、そうした議論の健全な土台を、掘り崩す。

「図書館の自由」は、いつでも、いくどでも、守られねばなりません。

知人たちと次のような活動を始めました。ご賛同いただける方、ぜひご署名を。

『はだしのゲン』閲覧制限の撤回を求める教員・研究者有志からの呼びかけ(25日16時まで)
http://hadashinogenappeal.blog.fc2.com/blog-entry-2.html

上記は「教員・研究者」による、という趣意ですが、すべての人に呼びかける活動もあります。

「生きろゲン!」松江市教育委員会は「はだしのゲン」を松江市内の小中学校図書館で子どもたちが自由に読めるように戻してほしい。
https://www.change.org/ja

ちなみに、図書館協会も松江市教育委員会に申し入れをしています。

「はだしのゲン」の利用制限:日本図書館協会、松江市教育委員会に利用制限措置について再考を求める要望書を送付

http://current.ndl.go.jp/node/24225