上司から部下へ。部下から上司へ。そして、いっしょに仕事をする同僚へ。
各自が自分の考えを聞かれなくても、ちゃんと常に明示してあげておくことは大事なことです。
- 相手の考えがわかっていれば他人は話しやすくなります。
- 部下が上司の考えをわかっていれば、自分が行う仕事の方向性について迷うことが少なくなります。
- 部門を横断した打ち合わせをする際などに、1からスタンスの違いや共通点を確認しあうところからはじめる手間が省け、本題から一気に話を進めることができます。
- 意見の相違があった場合でも、意見の同意があった場合でも、相手の立ち位置と自分の立ち位置を了解した上でお互いに会話を行い、結論として具体的にはどうするかを決める実質的な話し合いが可能になります。
- 何より「ちゃんと考えているんだ」ということを相手が理解でき、ぜんぜん何も考えてないんじゃないの?とよけいな疑問を抱かずに済みます。
自分の意志を明示すること、考えを伝えてあげることには、こんなメリットがあるというよりも、そうしなければここに挙げたようなことがまわりが享受できないというデメリットがあるといったほうがよいでしょう。
野球少年でもわかること
責任というのは、そういう意志、考えを伝えることをするということから生じるのではないでしょうか?その意志や考えがまわりと話している中で間違っているところがあるなとわかってもいいじゃないですか。そこで間違いを正せればそのほうがよっぽど与えられたミッションに対して責任を全うする方向では実質的だと思います。
それをせずに自分のなかだけで意志や考えをひた隠して、それで周囲が違う方向に向いてしまったら、そのほうがよくないでしょう。
ましてや、自分の意志や考えを明示することなく、他人が努力して行っている行動に対して不満だけを言うのは最低です。文句を言って相手の行動を制止したのなら、その制止した結果を引き継ぎ、自分が代替案を即刻提示すべきではないでしょうか。ボールはそっちにあるのですから、投げ返してもらわないとキャッチボールになりません。そんなことは野球少年でもわかることです。
意志を明示しないのは間違ったことをいう以上の過失では?
自分の考えを明示しないことを僕は無責任なことだと思います。それは間違ったことをいうこと以上に無責任だと思います。間違ったことを言っても聞く耳を持ってさえいれば、まわりのひとが「やさしく」間違いを指摘してくれて軌道修正が可能なはずです。そのほうがよっぽど責任をまっとうしやすいのではないかと思うのです。
完璧な人はいません。そして、誰も相手に完璧なんて求めてるわけじゃありません。完璧な答えより、何を考えているかを知りたいと思うことのほうが多いはずです。それはまだ答えになっていない途中経過だっていいはずです。
それを伝えないのはむしろ罪だと思うんです。
すくなくともすぐそばにいる相手に対しては。
それが配慮、やさしさ、しいては、信頼につながるものじゃないんでしょうか?
僕にはそれをしない理由がよくわかりません。
もしかしたら、この僕の考えも間違っているのかもしれません。でも、こういう風に書くことですくなくとも僕がどんな風に考えているかは伝わるのではないかと思っています。もしかすると、心優しい方が僕の間違いを正してくれるかもしれません。
それはそれで僕にとってはありがたいことです。
まぁ、こんなブログ上でのことより重要なのは実際に仕事場や過程などですぐそばにいる相手、いっしょに働く相手に対して、考えを伝えることなんですが。
ボールを怖がっていてはキャッチボールはできない
大事なことはキャッチボールをすることです。キャッチボールができるように自分のグローブの位置を相手に見えるように示してあげること、自分が相手のグローブに向かって投げる意志があることを明示してあげることだと思います。
投げる意志があるのか、どういう球を投げようとしているのか、それを見せてくれないと受け取る側も構えようがない。ましてや、投げたボールを投げ返してくれないとキャッチボールは成立しません。
ボールを怖がっていてはキャッチボールはできません。
間違っていても誰も怒りません。でも、ボールを投げようともしないくせに、人が投げたボールの文句ばかり言うようなら人は怒るのです。
まわりのことを考えるには
自分中心に考えるのではなく、相手が何を考え何を困っているかも考えなくてはいけません。相手が何を考え何を困っているかを考えるには、逆説的ですが、まず自分の考え、意志を明示することが必要なんです。先にリスト化しましたが、自分の考え、意志を明示することで、相手もどう考えているかを話しやすくなります。
「環境形而上学:有機体を取り囲む環境についての一般的理論」や「周囲とともにあるデザイン」など、アフォーダンス理論に言及したエントリーで書いていますが、ヒトという生き物は環境にある行動のリソース(アフォーダンス)を元に自らの行動を決めています。自分の意志や考えをまわりに対して明示してあげること、伝えてあげることはそういう意味でも相手が行動しやすくなる、自分の考えも伝えようとするきっかけになるはずです。だからこそ、まず自分の意志や考えを伝えてあげることには価値があると思うんです。
それをしなければ、相手はどんどん自分が考えていることとは違う行動をしてしまう可能性があります。相手にしてみれば何を考えているかわからない人とは仕事はできませんから、その人の分までどうにかしようと努力したりします。でも、相手にとってはあなたの考えがわからないわけですから、よいと思ってした行動があなたにとってはよくない行動になることだってありえます。
でも、だからって相手を責めるのはお門違いですよね?
その原因は、あなたが考えや意志を明示しなかったことに原因があるんですから。
だって、聞かれなかったから?
そんな風に思ってたらお粗末すぎです。
だったら、相手にしてもいれば何も言われなかったからという言い訳が通りますよね。
そんなこと言い出したらきりがない。キャッチボールはいつまでたってもはじまりません。
まわりの迷いをなくしてあげること
このあたり特に誰かを動かしていかなくてはいけない立場の人、プロジェクトなりチームなりをマネジメントしていかなくてはならない人にとっては大事なことなんじゃないでしょうか?上司やリーダーが何を考え、何を目指しているのかもわからなければ、部下は右往左往するばかりです。それは部下の側からすればすごく負担なはずです。その気持ちを察してあげられないのはどうかと思ってしまいます。そしたら、部下はますます上司から離れていってしまい、誰か別の相談できる人に話をするでしょう。それで困るのは自分自身なんじゃないでしょうか?
「形式知と暗黙知(っていうか直接話をきいてやれ)」というエントリーで書いたような部下の話を聞いてあげることと同時に、やっぱり自分の考えをちゃんと部下に伝えてあげることがとても重要なことだと思います。そうしたキャッチボールからじゃないとなかなか仕事をうまく進められないと思うから。
うまくいかないなと思ったら周囲じゃなく自分の行動をふりかえってみるクセをつけたほうがいいと僕は思います。
僕もそういう風に他人に思われないようにしないといけないなと思います。
まわりが気持ちよく仕事ができるような環境をつくるためにも。
じゃないと自分のモチベーションも結局下げることになりますからね。
関連エントリー
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- くせをつける、身につける
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