僕たちに自由意志はあるのか?

前触れもなく突然「自由意志」という言葉を使っているとはいえ、なにも殊更に哲学的な考察を行おうというつもりはないのですが、こうも最近読む本のなかに「自由意志」に関する記述が行われているのを目にしてしまうと、一言でも何か言わなきゃいけないような気にもなったりします。

意思決定はタイミング?

特に昨日書評を書かせていただいた池谷裕二さんの『進化しすぎた脳』で紹介されている、2005年の『サイエンス』に掲載されたという論文のヒルを使った意思決定のメカニズムに関する実験の結果などを知ってしまうと、果たして「自由意志」などというものは本当に存在するのかと疑ってみたくもなります。

この実験では、シャーレの底にいるヒルの体を棒でつつくという行為を行います。その際、つつき方はまったく同じでもヒルには2通りの逃げ方が見られるそうです。1つは泳いで逃げる方法、もう1つはシャーレの底を這って逃げる方法。

では、この2通りの逃げ方の意思決定をヒルはどのように行なっているのか?ということが問題になります。論文の著者たちは意思決定に関係しているニューロン活動をくまなく探したそうです。

そして、驚く発見をしたのです。

ヒルの場合、たまたまニューロン208番の細胞膜にイオンがたくさんたまっていて、強い電荷を帯びているときに刺激がくると、泳いで逃げようとするし、電気があまりたまってない状態で刺激が来たら、這って逃げようということだったんだ。

これはあくまでヒルでの実験結果にすぎませんが、ちょっと想像力をたくましくすれば、僕たちの人間の意思決定もこれと変わらないのではないかという疑問も生じてきます。
意思決定の場合だけでなく、記憶を辿るようなときでもそうかもしれません。

  • 突然、じゃんけんをしようといわれたときに最初にグーをだすのかチョキをだすのか。
  • それほど顔なじみではない人の名前を思い出せるときと思い出せないとき
  • テストの答えやビジネス上のアイデアがすぐに思いつくときとそうでないとき

池谷さんはこうした人間の意思決定やど忘れには「脳の電荷のゆらぎ」が関係しているのではないかという話を紹介してくれていたりします。

もしそんな風に僕たちの意思決定が「脳の電荷のゆらぎ」に関係したものであるとすると、僕らが自分たちにはあると思っている自由意志などが本当にあるのかと疑いたくもなります。

意志より実際の運動の信号のほうが先?

池谷さんは本のなかでこんな実験も紹介してくれています。

人を椅子に座らせてボタンを与え、「好きなときにボタンを押してください」と頼むそうです。そうして被験者が自分自身のタイミングでボタンを押しているときの脳の活動を測定するという実験です。

普通に考えれば自由意志に従ってボタンを押すのだから「ボタンを押そう」という意志が現れて、その後、「ボタンを押す」という命令を運動前野で出されると考えると思います。しかし、実験の結果はその逆で、先に運動前野で「ボタンを押す」というプログラムが動き、その1秒後に「動かそう」という意識が現れるのだそうです。

この実験の結果も明らかに僕たち人間が自分たちに備わっていると感じているはずの自由意志の存在に大きな疑問を投げかけるものではないでしょうか?

その一方で、「動かそう」という意志よりも、実際に「動かす」プログラムが先に作動するというのは、古くからある哲学上の問題、心脳問題において、どうして心のような非物質的なものが物質に影響を与えることができるのかという問題を答えに導いてくれるもののようにも思われます。

エーデルマンのダイナミック・コア仮説

例えば、脳神経科学者のジェラルド・M・エーデルマンは、その著書『脳は空より広いか―「私」という現象を考える』のなかで、ダイナミック・コア仮説という非常に興味深いモデルを紹介しています。

ダイナミック・コア

上の図は、意識プロセスをC、それに対応するダイナミック・コアの神経プロセスをC'とした場合の両者の関係を描いた図になります。

こうした図を用いつつ、エーデルマンは、意識Cとは脳内の神経プロセスC'が必然的にもつ特性であり、かつ、それが進化論的に実現されたのはその機能が高次な識別という生物の生存においてきわめて有利な特徴をもたらすからだったと述べています。

Cは、高次元の識別を反映し、ゆえにその高次元の識別をもたらすC'の存在なくしてCが生じることはない。Cは対応関係を反映するものであって、直接的にも場の属性を通しても、物理的に何かを引き起こすことはできない。しかし、C'は違う。C'の活動は次のC'の活動を因果的に引き起こす。そのC'に必然的に伴う、伴立するのがCというわけだ。

エーデルマンが言っているのは、物を動かすのは意識プロセスCのほうではなく、神経プロセスC'のほうだということです。

こう考えると、心はなぜ物体に影響を与えるのかという心脳問題のひとつの問題は解決されます。
それは心、意志が直接物に影響を与えているのではなく、物理的な脳神経の神経プロセスC'がまた別の神経プロセスC'に作用しているのだから、なんら超自然的な事柄ではなくなるというわけです。

また、意識プロセスCが神経プロセスC'が必然的にもつ特性なのだと考えると、先の池谷さんが紹介していたボタンの実験の結果も納得できるような気がしてきます。

自由意志は存在するのか? 茂木健一郎さんの場合

では、そうなると自由意志はあるのか?という問題がどうしてもあまり好ましくないほうに流れていくような印象を受けるのではないでしょうか。

自分たちが意識する意志の前にすでに脳神経的なプロセスがニューロンの発火として機能していて、さらにはその発火そのものに「ゆらぎ」があり、それが意思決定に大きな影響を与えている可能性があるとなると、僕らが感じている自由意志があるという思いをもしかしたら錯覚なのではないかと。

例えば、茂木健一郎さんもこんなことを書いています。

私の現時点での結論は、もし、現在知られている自然法則が正しいとすると、たとえ「自由意志」が存在したとしても、それはかなり限定されたものになるということだ。むしろ、「自由意志」、とりわけ、「アンサンブル限定」などの制約のつかない本当の意味での「自由」な「自由意志」は存在しないと考えるほうが、量子力学の非決定的な性質、相対論の時空観から見て、自然のように思われる。

もちろん、茂木さんは「自由意志は存在しない」と結論づけているわけではなくて、ここで引用した文章と同時に「《私たち人間には、「自由意志」があるのか?》《私は、「自由」なのか?》これらの問いに答えることは、心と脳の関係を探求する私たちの旅の、究極目的の1つである」とも書いています。

自由意志は存在するのか? ジョン・R・サールの場合

また、哲学者のジョン・R・サールは、これまた非常にわかりやすく心の哲学の問題に関する入門書『マインド―心の哲学』のなかで、自由意志の問題について次のように書いています。

すでに見てきたように、心理状態全体はどの瞬間も例外なく、神経生物学に基づくボトムアップな因果によって十分に決定される。だから、心理学のレヴェルにおいて因果的な十分条件が存在しないということ、いわば時間を過去から未来へとすすむたぐいの心理学的な因果関係に十分条件が存在しないという、心理学のレヴェルでの十分条件の欠如が神経生物学のレヴェルに反映しているとすれば、かえって決定的な違いが生じるだろう。もし自由が現実的なものだとしたら、自由と決定論のギャップは全面的に神経生物学のレヴェルにまで及んでいるはずである。しかし、いったいそんなことがありうるだろうか?
ジョン・R・サール『マインド―心の哲学』

ここでサールが「心理状態全体はどの瞬間も例外なく、神経生物学に基づくボトムアップな因果によって十分に決定される」ということで想定しているのは、先に見たエーデルマンによるダイナミック・コア仮説に近いものなのでしょう。であれば、完全に決定論に基づくとされる相対論的な時空間の中でまぎれもなく物質の1つとして決定論に基づくはずの神経生物学な動きのボトムアップにより、どうして心理学的レヴェルの自由が生じうるというギャップが可能なのかとサールは述べているわけです。

サールも茂木さん同様に自由意志があるかないかの答えを出していませんし、それが非常にむずかしい問題だと述べています。

自由意志とマーケティング

こうした様々な記述を目にして思うのは、実際に自由意志があるかどうかの答えによらずとも、どうやらたとえ人間に自由意志があったとしても僕らが普段何気なく自分たちは自由だと思っている形では自由ではなさそうだということです。

そんなことを考えながら思うのは、普段、僕たちが買い物をしたり、食事の際の店を選んだり、普段利用するWebサイトを選ぶ行動というのはどういう選択によって行なわれているのだろうかということです。

僕たちはどういう風にものを欲し、何を必要と感じるのか? あるいは、同じような機能をもつ商品やWebサイトでもある特定のものだけに魅力を感じ、愛着を感じるのはいったいどういうことなのか?

そして、それらは僕たち自身の自由意志によるものなのか? あるいは、僕たちが知らないところで神経生物学的に決定されるものなのか?

その場合、マーケターやWebデザイナーは、いかにしてマーケティングを行ったり、Webデザインを行っていけばよいのか?

結局のところ、僕がこうした自由意志の問題を前にして思うのは、僕たちはいま何をデザインしているのか?ということです。

どうもこういう認知科学、脳科学的な問題を抜きにして、これからのマーケティングやWebデザインを考えるのは不可能な気がしているのです。

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この記事へのコメント

  • gushi

    いつも興味深く読ませてもらっています。

    自由意志の問題について、ピコーンと感じるところがありました。

    最近、読んだ本にセールスの各種テクニックがありました。「権威付け」や「返報性」などです。

    これらによって、購入者の意思を(本人に悟られないように)コントロールできるということは、その購入者の「自由意志」は、実際は自由ではないとなります。(意思決定のメカニズムがそうなっているため、本人が気付かない限り、どうしてもコントロールされてしまいます)

    また、同様に催眠術もあります。「砂糖を辛く感じる」「赤面症を治療する」など、意識(茂木先生のクオリアでも)をコントロールできます。

    で、結論として、本人の行動を自由自在に決める「自由意思」は無いのではないかと。
    (環境等の要因によって自動的に決められていく意思決定プロセスを)「自由意思」と呼び、それによって自らの行動(感覚)を決定してると思い込む方が、生きていくのに効率がいいから存在すると思い込んでいる(思い込まされている…誰に?笑)んじゃないかと。
    そうでもしないと、自らの行動について、一つ一つ検証作業が発生して、それこそ、生きていくためのエネルギー効率が悪くなっちゃう。(特に複雑な社会だと、一つの行動に対する決定要因が多すぎて、ほんとエネルギー源の御飯さえ食べられなくなっちゃうんじゃないか?)


    などなど、考えさせてもらいました。
    楽しい考えネタをありがとうございます。
    2007年02月20日 12:39
  • tanahashi

    gushiさん、コメントありがとうございます。

    「権威付け」や「催眠術」で確かに人は自由な意志を奪われますね。
    でも、自由な意志が存在しないことがあることと自由意志がないと結論づけることは違うことだと思います。

    もうひとつ。茂木さんをはじめ自由意志を問題にする方、ほぼすべてが言及しているように、自由意志がないとなると、いまの社会のあり方は大きく変わってしまう。例えば、犯罪者に自由意志がなかったらその責任を犯罪者自身に問えなくなる。犯罪を犯すことが決定論的に決まっているなら、犯罪者が自身の責任でそれを回避するのは無理なのだから。

    自由意志がないと結論づけるのは、そうした意味でもむずかしい問題です。
    2007年02月20日 13:03
  • gushi

    お返事ありがとうございます。

    確かに、自由意思が無いと結論付けたのは早計でした。

    さて、今、コメントしているのは、私の自由意志によるものなのか、それとも、最初のコメントにお返事いただいた「ので」、またコメントしようと自動的に脳みそが動いて、それに従っているのか?

    うーん、わからない、けど、考えるのは楽しいです。:)
    2007年02月21日 01:54

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