本の読みやすさとわかりやすさ
ところで、最近、本を読んでいて、その本がわかりやすいということと読みやすいというのは違うものなのかなって思いはじめています。たとえば、いま『祖先の物語』を読んでいるリチャード・ドーキンスの本はどれも、僕にとってはとても読みやすいんです。平易な言葉遣いもそうですが、全体的な話の進め方なんかもテンポがあって非常にいいなと思うんです。起承転結が明確なんですよね。
あとよく読む人ではダニエル・C・デネットやジャレド・ダイアモンドの本は比較的、いつも読みやすいなと思いますし、そう感じる人の本は自然と読んだ本の数も多くなります。先日、読み終えたピーター・アトキンスの『ガリレオの指』も読みやすい本でしたね。
反対に最近読んで面白かった本で若干読みにくさを感じたのは『物理学の未来』だとか『歌うネアンデルタール』といったところでしょうか。
でも、そうかといって、こうした本の内容がわかりにくかったかというとそうでもないんです。特に『物理学の未来』なんて、扱っている内容が僕自身に馴染みがなかったり、そもそも非常に理解しづらい事柄も扱っていたりするんですが、それを非常にわかりやすく紹介してくれていました(「組織的現象としての"相"、そして、市場動向」でも同様のことを書いていますね)。
その反対に、読みやすい本にあげたピーター・アトキンスの『ガリレオの指』なんて、決してわかりやすい本ではなかったかなと思います。わかりやすくしようと非常に努力してくれたのはわかりますが、それでもリチャード・ファインマンの「量子論の何たるかを知っていると言う人は、量子論を理解してはいない」という有名な言葉にもあるように量子力学をわかるのはむずかしいし、アトキンスが対象にした非常に深い科学の驚きに満ちた世界を理解するのは、そう簡単なものではなかったのかなと思います。その意味で『ガリレオの指』は何度か読み返したいなと思う一冊でした。
(参考:ピーター・アトキンス『ガリレオの指』書評エントリー)
本の読みやすさとわかりやすさ
そんな風に考えると、本の読みやすさとわかりやすさは必ずしもリンクしないのかなと思ったりします。読みやすさとわかりやすさは本来別物で、読みやすいことでわかりやすさが増すことはあっても、読みやすさだけでは完全にわかりやすくなるということはないのだと思います。これは読む対象と理解する対象が違うということに起因することではないでしょうか。
ここで読む対象とは書かれた文章そのもので、理解する対象とは書かれた文章が記述の対象としているものを想定しています。フェルディナン・ド・ソシュールが定義した言語学用語でのシニフィアン(signifiant:記号表現)とシニフィエ(signifié:記号内容)というものがありますが、この関係に近いのかなと思いますが、ソシュールの区分のほうは文章というより単語を想定しているはずですので、違うところもあるでしょう。
(参考:シニフィアンとシニフィエ - Wikipedia)
ここには2つの相対的関係があるのではないかと思います。
1つは読む人と読まれる文章の関係、もう1つは読んで理解しようとする人と理解の対象となる記述されたものとの関係です。
記述の対象が読む人にとって理解しづらいものであれば、いくら文章そのものは平易な言葉で読みやすく書かれたとしても必ずしもわかりやすいものにはならないでしょう。先の量子力学の場合などはこれに当てはまりますね。相対的といったのはどちらも書かれたもの、記述の対象となったものの絶対的な属性として、読みやすさやわかりやすさがあるのではなく、読む側のリテラシーや理解の対象へに関する事前にもっている知識といったパラメーターによって、読みやすさ、わかりやすさといった度合いは相対的に変化するものだろうと思うからです。
Webユーザビリティにおける利用しやすさと利用可能性
さて、こんなことを考えたのは、この相対的関係にはWebユーザビリティを考える際にも役に立ちそうな予感がしたからです。つまり、Webユーザビリティの場合でも同様の三角関係を想定する必要があるのではないかと思うんです。非常に単純化してしまえば、この2つの相対的関係は、ユーザーと情報の構造と中身の三角関係にも見えますし、あるいは、ユーザー、コンテンツ提供者、Web制作者の三角関係とも考えられます。
しかし、先ほどの本の例に則して考えると、やはり本の場合同様、ユーザーと利用対象としてのWeb、直接的な要求であるところの情報そのもの、あるいは機能的便益という三角関係が成り立つのではないかと思います。
前に「Webユーザビリティ再考」で紹介したISO9241-11のユーザビリティの定義における有効さ、効率、満足度に照らし合わせると、有効さは後者の情報そのものや機能的便益に関連し、効率は前者のWebに、そして、満足度は両方に関わると整理してみることができるのではないかと思います。
もちろん本の場合の読みやすさとわかりやすさが実は完全に分離できるものではないのと同じように、入れ物とその内容物のような関係で、Webユーザビリティにおける有効さと効率の話を論じきってしまってはいけないのでしょう。
ただ、それを前提とした上で、中身の話と入れ物の話といったモデルで考えてみるのは、Webサイトの設計の際、問題を整理するのには役に立つんじゃないでしょうか?
たとえ、実際につくるのはHTMLを静的に制作するのだとしても、ある意味、CMSやブログのテンプレートを設計するような感覚で、デザインを考えてみるのは1つの方法だろうと思います。そうすれば、個別のコンテンツ内容に引きずられて、テンプレートがバラバラになってしまったり、イレギュラーなモジュールが必要以上に増えたりといったことも防げるでしょうし。
クライアントに委託されてWebの制作を行っている設計者に意外とありがちなのは、箱だけ作って中身がないみたいなことですが、中身の話と入れ物の話を別々に考えるといっても、それは単に頭を整理するための手法だということは忘れちゃダメですね。
先のソシュールの言語学でもシニフィエなきシニフィアンなんて言葉がありますが、中身のないWebサイトなんてユーザビリティ的には最悪ですから。
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