神社にとって本質的な要素は社殿ではなく鎮守の杜

やっぱりね。そうだと思った。
西垣通さんの『情報学的転回―IT社会のゆくえ』を読んだのをきっかけに、東洋思想について勉強しようと思い、読み始めたのが鎌田東二さんの『神道とは何か―自然の霊性を感じて生きる』。
その中に僕の予想していたとおりの答えを見つけました。

その地域一帯を守り育む大地の生成力やエネルギーをため込み、円滑に流し循環させていくためのセンターでありツボが神社なのである。したがって神社において最も重要なのは、社殿などの建造物ではなく、その杜あるいは泉や木や岩を持つ場所そのものということになる。そこで、鎮守の杜の「杜」のほうが神社にとってより本質的な要素となる。
鎌田東二『神道とは何か―自然の霊性を感じて生きる』
伊勢神宮や熱田神宮を訪れて感じたのは、その杜の生命力の凄さでした。
特に伊勢神宮の杜の自然の生命力は圧巻で、大人が5、6人がかりで手をつないでやっと周囲を囲むことのできる太さの巨大な木々から発散させる生命感はそのパワーが凄すぎて、なんともエロティックな感触さえ与えるものでした。

20年に1度の式年遷宮という1300年間続けられてきた行事により、伊勢神宮の内宮、外宮、そして別宮や五十鈴川にかかる宇治橋なども含めて新しくつくり変えられ、御装束神宝と呼ばれる正殿の内外を奉飾する御料525種、1,085点も同時に新しいものに調製されてきたのに対して、内宮の社殿を中心とした付近は神域とされ、神宮の鎮座以来約2000年間にわたり、まったく斧を入れることのなかった禁伐林となっているのを考えても、神道においてどちらが本質的な要素とされるのかが感じ取れます。

神宮の杜

土地の肥沃さという情報

そして、神社がある場所は、地滑り地帯や火山地帯などの災害地帯において、地滑り地帯ならわずかに残された地盤のしっかりした場所であったり、火山地帯であれば溶岩流や火砕流が避けて通る場所であったりするようです。
また、地滑りや火山爆発はもちろん災害なのですが、同時に「産土」という言葉があるとおり、土が新しく豊かな養分を含んだ土に入れ替わることで、植物や動物が繁殖しやすくなる生命豊かな土地だそうです。

神宮の杜2

その反対の事例として『文明崩壊』の中でジャレド・ダイアモンドはオーストラリアという大陸の土地の脆弱性をとりあげています。

その土壌は、平均して最も栄養濃度が低く、最も植物の成長が遅く、最も生産性に乏しい。それは、オーストラリアの土壌が概して非常に古く、数十億年を経るうちに雨でその栄養分が浸出してしまったからだ。オーストラリアの西部のマーチンソン山脈には、地殻として残っている最古の、約四十億年前の巌が存在する。
ジャレド・ダイアモンド『文明崩壊(下)』
さらにその土壌の生産性の低さに加え、淡水の入手の困難、オーストラリア国内における主要都市間の距離、海外の貿易相手との距離、イギリスからの入植者が持ち込んだ外来種(ヒツジ、ウサギ、キツネ etc.)と文化的価値観による環境破壊など、さまざまな要因が複合的に絡み合って、土地の劣化(栄養分の枯渇、人為的な旱魃、塩性化、外来種の雑草の広がり)や森林の破壊、沿岸水域での海産物の乱獲などの様々な致命的な問題を引き起こしているのだそうです。
森林に覆われた土地の比率が最も小さい(総面積の20%程度)大陸であるオーストラリアはそれでもなお、縮小する森林を伐採し続け、先進国の中でも国土に占める森林の割合が最も高い(74%)国である日本に最も多くの林業生産物(パルプなど)を輸出しており、かつ、林産物加工品である紙などを輸出量の3倍近く輸入するという矛盾を引き起こしてしまっています。

オーストラリアも最初にイギリス人が入植した際は、自然に恵まれた土地だったそうです。しかし、イギリス人が母国の土地と同等の肥沃さをその土地に見て、牧場や農地を開発した結果、その脆弱な大地はすぐに悲鳴をあげ、現在のような危機的な状況に至っているのだそうです。

日本人の宗教を美の宗教と見る人がいる。含蓄のあるものの見方である。神社に立って、森厳たる気に触れ、手水をとり、清々しさや爽やかな気配を感じとったとき、そこになにがしか美的なたたずまいとでもいうべきものが現出しているのをわれわれははっきり感知する。美的感情を抜きにした日本の文化は存在しえない。
鎌田東二『神道とは何か―自然の霊性を感じて生きる』
自然から感じる「美しい」という情報は決して現在の意味での美しさだけを示すものではないのかもしれません。
それは自分たち人間の生命維持にも大きな影響力をもった土地の肥沃さという情報をも含んでいるものなのかもしれないなと思います。
そして、それはイギリス人がはじめて眼にした土地オーストラリアの肥沃さを誤解したように、非常にローカル性をもった情報なのかもしれません。

Weblogで生命情報の交換が可能なコミュニティは成立するか

そして、その情報はブログでいくつかのエントリーを書くという行為、言葉というメディアに乗せておくる情報では十分に伝わらない情報でもあります。
ここまでいくつかのエントリーで、伊勢神宮や熱田神宮のことに触れてきましたが、そこで私自身がその生命力あふれる自然から感じた生命情報を、機械情報であるWeblogという形式では伝えるのはむずかしいのでしょう。
でも、それは機械情報の欠点としてあきらめる類いのことではない気がしています。
足りないのは生命情報に対する理解というインフラであって、その基盤を整えることで、機械情報のやりとりからも生命にとって価値のあるコミュニティをつくることが可能なんだろうと思っています。

う~ん。なんだか最近、ずいぶん遠くに来てしまった気がします。
それでも興味の中心は「情報」そして「情報デザイン」だったりします。
ただ、この分野はナショナリズムに陥らず、ローカリズムという視点で考えていければなと思っています。

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