「さよなら西部邁先生」最期の本を担当した編集者から想いを込めて
~今でも先生の声が耳に残っています何度も怒られたけれど
西部邁先生との出会いは15年ほど前にさかのぼります。
鼎談本の編集を経て、2004年に先生の単著『学問』を初めて担当させていただきました。でも、それはその後、先生に怒られ続ける始まりでもありました。
この書籍のタイトルを「『学問のススム』でいかがでしょうか?」と提案したところ、
「馬鹿モン、ワシは言葉を間違えて使うことが大嫌いなんじゃ!」
と頭ごなしに怒鳴られましたね。
ここは負けてなるものかと、私も「「学問」を論じつつ、西部先生も尊敬する福沢諭吉翁の『学問のススメ』をもじった「学問のススム」という面白いタイトルは、先生の名前でなければできません。まさに千載一遇のチャンスです」
と反論をしたのですが、より一層激しく怒られ、肩を落としたことを昨日のことのように思い出します。
怒った先の笑顔
次作の『無念の戦後史』(2005年)は、なかなかタイトル案が思いつかず四苦八苦いたしました。
戦後史という大きなテーマと、前作での大喧嘩で、私はかなり腰が引けていました。
タイトルに関しては双方が一歩も譲らず、先生と私が睨み合ったままの、膠着状態の日々が続きました。
ところがある日、先生がポツリとおっしゃったのです。
「僕が風呂のなかで『ああ、無念、無念』と歌っていたところ、妻が『無念の戦後史』というタイトルでいいんじゃないの」と言うんだよ」。
タイトルがようやく決まって、ホッとしたのも束の間、
「初稿ゲラの戻しを10日間でさせるというのは、ひどいんじゃないの。あなたの進行が悪過ぎる」
とまたまたお叱りを受けてしまいました。
以来、酒場での振る舞いを叱られ、帯の惹句の納得のいかない箇所を叱られ、常に「馬鹿モン」の罵倒を浴びせられた編集者でございます。
では、なぜ、そんな怖い西部先生と私は15年もお仕事を続けられたのでしょうか。
それはですね……怒った後の西部先生の笑顔が抜群に良いのです。
にっこりと「ワシが怒る意味がわかるよな」という表情を浮かべるのです。
私はその表情に15年間、魅了されてきたと言ってもいいでしょう。