意味をあたえる

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私と妻

朝からリンゴ狩りに行くと言うが、私は仕事なのでパスした。というより、最初からパスするものとして組み込まれた。それで、私が昨晩夕ご飯を食べながら
「何時に出るの?」
と訊ねると
「遊びだから、仕事に行く人よりも後」
という謎ルールが適用された。これは今回は義母も同行するからであり、義母は古い人間なので、働く人間のほうが偉いと思っているのである。なので、私が一緒に出かけるときも、義父が家に戻るよりも早く帰りたいような素振りを見せるが、だいたいお風呂に寄るからそれは達成できない。義父はもう定年しており、今も一応仕事をしているが、私たちが遊びに出ているからと言って必ずしも仕事をしているとは限らないゆるい仕事なので、パチンコに行っていることもあり、義母の感じる後ろめたさは、つまり父権とか亭主を立てる的な感覚のようだ。

しかしこれが彼女たちの自己満足でしかないことは明らかで、「仕事に出たら、家を出る」と言われたら私が彼女たちを待たせる形になってしまう。私は人を待たせたりとか、負担をかけることがとてもプレッシャーに感じる性分なので、
「じゃあ早めに出るよ」
と言うと、
「悪いよ」
と言う。本当に悪いと思っているなら、出発時間を尋ねられて、「仕事に出てから」という答え方をしない。一方私も
「早く出る」
なんて言わずに、いつも通りを装って、5分くらい早く出るのが良い。そういうのが優しさだ。私は「優しさ」と「親切」の違いについてよく考える。

それで、私は普段よりも1時間くらい早く出ようとしたら、
「早い」
と怒られた。朝の話である。妻としては20分くらい早いのが理想のようだ。確かに私もあてつけがましいが、早く出るに越したことはないし、そこから、最終的に弓岡はサービス精神が旺盛だが、それが過剰になることがある、と悟ってほしかったのである。妻いわく私が家を出たとたんに義母のスイッチが入り、妻や子の準備が整っていないと「遅い」と罵られるらしい。私は以前妻の時間のルーズさを「アフリカ人」と揶揄したことがあるが、どうやら一家全体に時間や時刻の概念が希薄であり、前の出来事が終わったら次、という主観に基づいた世界に生きている。そこでは、「遅刻」が予定時刻を過ぎたことではなく、どれだけ待たされたか、ではかられる。

と、研究者ぶって眺めてみれば大変興味深いが、私もその一部だし、私としては「行け」と言われたり「行くな」と言われたり、朝から無駄に消耗してしまう。私が生きている世界は言葉に重きをおかれる世界であり、そこでは形のはっきりしない気持ちや感情よりも、口、または手から発せられた言葉や文字こそが、一見間違っている風でも、ある種の真実性を備えていると評価される。