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2015.12.16

同志社大学長選の村田晃嗣氏落選で「もや」っと思ったこと

 今年ブログに書き落として「もや」っとしたことが他になにかあるだろうかと自分の心を覗き込んで、そういえば、同志社大学長選の村田晃嗣氏落選では、なんとも言えない「もや」っとした思いが残ったことを思い出した。あれはなんだっただろうかと再考して、やはり「もや」っとしたままであった。ただ、そのもや感は書いておこうかと思う。
 話は11月6日のこと、同志社大学で任期満了に伴う学長選挙があり、立候補した現学長の村田晃嗣氏(51)が破れ、理工学部教授の松岡敬氏(60)が選出された。
 自分にとってはほとんど関係のない大学の人事のことでもあり、それだけ見ればどうという話でもなく、安閑と傍観してよいことである。なにより、その選出過程に公的な問題があったとも想定されない。ただし、報道からの情報を加えれば、投票資格者は同大学の教職員約930人に限られ、投票者数や得票数については公開されてはいない。
 ではどういう焦点化で話題となって自分の気を引いたのだろうか? 簡単に言えば、安保法制からみである。衆院特別委員会が7月に開いた中央公聴会に村田氏が与党推薦で出席し、安保法案に賛成の意見を述べていた。これに対して、同大学の学長選資格者有志90人が村田氏を批判する声明を発表した。その内容をハフィントンの関連記事から孫引きすると、「村田教授は、憲法違反かどうかの判断を差し置いて、『国際情勢』の変化という観点から、法案に対して明確な賛意を議会の場で表明した」「国際情勢に対応しなければならないからといって憲法違反の法律を制定したとすれば、立憲主義の原則をないがしろにすることになる」「学術的というよりはむしろきわめて政治的な観点からの演説」とのことである(参照)。
 批判点は2つに分かれるだろう。「憲法違反の法律を制定」に賛同したことは許されない、ということと、「きわめて政治的な観点からの演説」は許されないということである。
 ここで、「もや」っとした気分が始まる。。「憲法違反の法律」であるかは未確定である。「政治的な観点からの演説」というが村田氏の学長としての発言ではなかったので失当である。
 しかし、と、ここで思う。私はこの批判は2点とも失当であるとは思うが、村田氏は同大学の学長としてふさわしくないと選出資格者が主張するのは言論の自由の範囲であろう。つまり、なんら問題はない。
 そして概ねこの運動の結果と見てよいだろうが、村田氏は学長選に敗れた。当然、このこと自体にはなんら問題はない。
 ただ、「もや」っとした感覚が残った。そのあたりはWSJ記事「【寄稿】同志社大学長選に見る日本の「言論の自由」」で刺激された(参照)。結論からいうと、私はこの議論に賛同しているわけではない。誤解なきよう。ただ、こうした議論が対外メディアでしか見かけないかに思えたことにも「もや」っとした感じはあった。
 まず同寄稿の要点だが、「深い国家的議論」にあることに留意されたい。


 言論の自由の限界をめぐる衝突で混乱が生じているのは米国の大学だけではない。日本有数の名門大学のひとつでも、安倍晋三首相への支持を公言したことを背景に、誰あろう学長自身が同僚である教職員らによって退任に追い込まれる事態が発生したばかりだ。この騒動は日本の将来をめぐる、より深い国家的議論を映し出している。

 同寄稿では村田氏の学長選はこれに関連するというのだ。

 日本の学術界はおおよそリベラルであることが知られているが、村田氏のケースにみる言論の自由をめぐる懸念は日本が抱えるより大きな問題を反映している。根本にあるのは、日本がその過去と未来の両方にどう対峙していくのかという問題だ。安倍首相は、もはや日本は過去の行いのために永遠に「ざんげ」の状態にあり続けることはできないと決断した。首相は日本が過ちから学んだということを世界に示さねばならないと考えている。今現在の課題に日本は対応するということもだ。

 寄稿の中心は次の部分であろう。

 言論の自由と学術的探求は左派・右両方の脅威から守られなければならない。ニューヨークに駐在する日本の外交官らは今年、米出版社のマグロウヒルに対し、世界史の教科書に書かれた戦時中の慰安婦に関する記述で、日本政府の立場をもっと反映させた内容に変更するよう求めた。日本研究者を含む200人を超える米国の学識経験者は、政府による操作や検閲、個人的な脅しを受けない歴史研究を求める公開書簡に署名した。
 国内外のメディアは反対意見を強制的に封じようとしていると日本政府を非難するが、日本の文化的エリート層は、活動家に劣らない姿勢や、反対意見を黙らせる強い手段を使おうという意志を見せている。村田氏を学長の座から引きずり下ろす中で、同志社大の教職員らは日本での自由な言論に伴う代償について身も凍るようなメッセージを送ることになった。村田氏の日本人および米国人の同僚らは、懲罰を恐れることなしに専門家としての意見を公表できるよう村田氏の権利を擁護する国際的な書簡に署名するだろうか? 

 誤解を避けるために、一見論点にも見える慰安婦問題については、議論から外しておきたい。議論拡散を避けたいだけである。
 その上で、この寄稿の要点は次の点にあると私は思った。

村田氏の日本人および米国人の同僚らは、懲罰を恐れることなしに専門家としての意見を公表できるよう村田氏の権利を擁護する国際的な書簡に署名するだろうか? 

 この議論の理解の成否を決めるのは、村田氏の学長選における落選はその意味で「懲罰」であったか?ということだ。
 法的にかつ公的に考えれば、明白に「懲罰」ではない。なんら問題はないと言えるだろう。ではどこが「もや」っとしているのだろうか?
 私もこのブログをやっていて、右派と見られるとき「闇のキャンディーズ」(参照)のような左派的な匿名者から罵倒や攻撃をしばしば受ける。しだいにコメント欄を事実上閉じてしまったのもそのせいである。有益なコメントを読み出すために、不快な攻撃文をその数倍読まなくてはならないのが心理的な負担になっている。これほどまでに心理的な負担になるのであれば、そもそもブログなど書く必要はないのではないかとも思うし、実際、今年はかなりいやになった。
 ついでに言うと、右派的なかたからの攻撃も受けるし、賛同のように見せかけて人種差別まるだしの匿名者コメントもいただく。これらはとてもではないが公開できるようなシロモノではない。
 何が言いたいのかというと、私がブログを書くことに対して、こうした反応は自分にとってはきちんと「懲罰」として機能しているなあ、ということである。
 少しまとめよう。
 まず、明白に、同志社大学長選で村田晃嗣氏落選については「懲罰」ではなく、まったく問題はない。
 しかし、同種の圧力は実際には、ネットの炎上などを介して「懲罰」のようにも機能している現状がある。
 もう少し砕いていうなら、この問題は、ただ、炎上やネットスクラム的な問題というのではなく、予め予想される特定の思想信条に対応するという点で、予測可能であり、だから、「懲罰」的に機能する。つまり、その議論を実質封じる機能をもっていることが構造化している。
 WSJ寄稿の文脈でいうなら、「国益に関する責任ある真剣な議論」について、特定の意見を述べれば、それには「懲罰」的な圧力がかかることは想定される。
 もちろん、それでも言論の自由はあるのだから、気にしなければよいというのもあるだろう。
 だが、そこはそう割り切れるものだろうかというのが、この「もや」っとした感覚の核にある。
 先に少し触れたが「闇のキャンディーズ」のような匿名者は多い。これについてもブログで少し触れるかもしれない。
 
 

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