佐世保女子高生殺害事件、雑感
7月26日に長崎県佐世保市のマンションに一人住む15歳の女子高校生が友人で同じく15歳で高校一年生の女子高生を殺害した事件は、日本全体に衝撃を与えた。大事件であったと言っていい。日本のブログとして少し雑感を留めておきたい。
私は基本的に、こうした非組織的な殺人事件については関心をもたないようにしている。今回も、NHK7時のニュースで初報道があったときも、概要を聞いてから、さっと飛ばした。私は基本的に国内ニュースはNHK7時のニュースしか見ないし、また見るときはいったん録画して見るので、関心のないニュースは飛ばしている。
この事件に関心がないわけではない。関心をもたないようにしているというだけである。当然だが、15歳の少女が15歳の少女を殺害したというニュース自体には、ある種、衝撃を受けた。
そして場所が佐世保であることから、2004年6月に同市で発生した長崎県佐世保市女子児童殺害事件のことを即座に思い出した。なぜ佐世保で未成年女子による殺傷事件が起きるのだろうかと不思議に思った。
ニュースは即座に国際ニュースにもなった。私はBBCの主要ニュースは見ることにしているので、ここでもまたこのニュースがひっかかっていることに、半ば驚き、半ば当然だろうと思った。国際的に見ても、異常な事件であることはあきらかである。そしてどこかしら日本人というものの恐ろしさを暗示しているように世界で受け止められているようにも感じられた。
BBCは「日本の女子高校生が’同級生を切断”した(Japanese high school girl 'dismembers classmate')」(参照)として報道した。表題から見てもわかるように、その殺害の猟奇性に注目していた。印象だが、こうした表題の作為性からは、英国的では、2000年の「ルーシー・ブラックマンさん事件」の印象があるのではないかと思った。
私はこの事件に関心を持たないようにしているとは言ったものの、事件の妖しい魅力と言っていいのか、その衝迫性には抗しがたいものがあって、事件のアウトラインは了解した。知るほどに恐ろしい事件である。その殺害手順が尋常ではない。
当初私は、佐世保市女子児童殺害事件を連想したように、背後に怒りのような、否定的な、そしてあまりに人間的な感情の物語が潜んでいるのではないかと思い込んでいた。そして私は多分にスノビズムの人だからそういう通俗小説のような筋書きを好まない。だが、明らかにこの事件はそうした類とは異なっていた。
とんでもないものないものに遭遇したような恐怖感を覚えた。連想したのは、1981年のパリ人肉事件や1997年の神戸連続児童殺傷事件のような、一種「サイコパス」がもたらす事件である。そう思えた瞬間に、足下に落ちた矢を避けるように身を引く。
基本的に私の理解を絶する事件であり、そして市民にとっても理解できる種類の事件ではないと、とりあえず思うことにした。その意味合いは、なにかの物語を背後に読もうとすることは空しいだろうし、ここから教訓のようなものを言うのも難しいだろう、ということだ。
ましてや、誰かを罰したいような物語も紡げやしないだろう。にも関わらずこの事件に魅了された人々はそこから罰の物語に酔おうとするだろう……そう思えた。こうした怪物のような何かに恐怖を感じる心理がさせるだから、しかたがないことだ。
こうした事件に遭遇したとき、私はできるだけ遠景から見たいと願う。できるだけ遠景に身を引いたときこ、の事件はどのように見えるだろうか。もちろん、なにも見えないということはありうる。が、ほとんど暗闇のように見えなくなったときに、まるで色の違う小さな三つの点のような疑問がわいた。
一つめは最初の疑問である。なぜ佐世保なのか。理性は、それはただの偶然であると告げようとするが、逆に理性的に考えれば考えるほど、偶然というには奇妙すぎる。だが、そこから何か通俗的な物語を描くこともおそらく間違いだろう。
二つめは年齢である。事件当初は容疑者と被害者はともに15歳であった。だが、いつからか容疑者は16歳と言われるようになった。誤報だろうかと調べると、事件の2日後に容疑者は16歳になったらしい。両者、高校二年生だった。不確か情報ではあるが、もし容疑者が誕生日前の出来事であるとしたらそれになにか意味はあるのだろうか。ここでも通俗的な物語は抑制したほうがよいが、日本の場合少年法20条2項で少年が故意に殺人を起こした場合、16歳以上の場合は検察官に送致するので、今後の扱いを含めての関心は起きる。容疑者が14歳以上であることから刑事罰の対象となるが、現状、家裁送致前の捜査段階で精神鑑定を実施することになったので、この疑問は曖昧な状態に置かれたように見える。
三つ目は、なぜ容疑者はひとり暮らしをしていたのかという疑問である。この点は、かなり合理的な説明がつくはずであり、そして、ついた。時事報道「複数の精神科医受診=父殴打後、協議で1人暮らし-高1女子殺害・長崎」(参照)によれば、3月2日、容疑者の少女は実家で父親を殴打し大けがをさせたことがあり、これを機に彼女は精神科医の診断やカウンセリングを受けていたらしい。彼女が4月からひとり暮らしを始めたのは、医師との協議の結果、実家で暮らしつづけることは、父親の命の危険があったらしい。
この三点目の疑問が解決されたことは、私に奇妙な困惑をもたらした。正確にいうとそれを知って私はあることを思った。
その前に、この関連から、こう言うとなんだが、人々が起こす反応を思った。父親へのバッシングである。おそらくこの事実から、容疑者の少女から実父への憎悪を描きその構図のなかで父を捉える誘惑は断ちがたい。だが私はすでにそうした物語はおそらく不毛だろと思っていた。実際のところ現状では、この物語はうまく描けていない。
私が容疑者のひとり暮らしの背景を知って思った、そのあることには、自分のちょっとした狂気性が混じらざるをえない。だがあえて言うと、父親は殺されてもしかたないとして娘に向き合うことだった。そしてその結果、撲殺されても、しかたがない、と。
ひどい言い方に聞こえるかもしれないので、別の言い方にすると、自分ならそうするということだ。自分は娘に殺されよう、と決意するということである。もちろん、無抵抗に殺されるということではなく、防衛はする。防衛しつつ、娘がむき出す狂気の姿態を二人で見つめたい。そういう運命になったら、それが自分の人生の意味だったのだと諦める。そして、もしこの運命に癒やしというのがあるなら、そのカーリー神のような演舞をすべて見届ける必要があるはずだ。
少し自分の狂気性から離れると、それはむちゃくちゃな話だということは理解している。到底、他者に、そうあれ、とは言えない類の話であることはわかる。実際、そういう場面に自分がおかれて、そうできるかは明確な確信もない。それでもが、成人してない娘に殺されるなら、親は本望ではないかと思える心情があるし、その心情が自分にすぐに浮かんだことに不思議な思いがした。
さらに別の言い方をする。
この問題はもはや、市民社会の理解を超えていると私は思う。だが、人間のありかたとして見つめれば、けして異常ではない。
人間というのはそういう存在なのだ。そういう状況に置かれたときは、人間は静かに一人、市民社会の外側に立つことがある。その一つの形が、「さあて、結局、俺は娘に殺されるか、しかたねーな」という観念ということは、ありうるだろう。
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コメント
私はこの容疑者を「自覚のあるサイコパス」であると考えている。
一般にサイコパスは、他者に共感を持たないが、それだけで犯罪を特に指向するわけではない。知能の低いサイコパスは、越えてはならない一線を理解できずに、粗暴犯などになりがちだが、(反省はしないが)ことさら犯罪を犯そうとしているわけではないし、知能の高いサイコパスは、会社社長になるなどかえって社会的に成功することも多い。そして、このようなサイコパスは、他者に対し共感を持っていないことについて、葛藤することもない。
それに対し、自分が他者に共感を持たないことに自覚した上で、偏執的にそれを埋めようとする一群を「自覚のあるサイコパス」と考える。他者への共感のなさから現実感がなく、その自覚から現実感を求めて極限状況を指向する。戦場でしか生の実感を得られない兵士、なら社会の範疇に納まるかもしれないが、日常で殺人を指向するようになってはまともに生きていくことはできない。
この容疑者について知能が低いわけではない、とされながらも、隠す余裕もなく事件を起こし続けるあたりに強度の偏執性を感じる。おそらく、単に隔離するだけでは現実感のないまま、極限状況への渇望のみが残り、再犯、極端には収容施設の人間への加害すらありうると思う。
比較対象として神戸連続児童殺傷事件が挙げられているが、私は神戸の件は劇場型犯罪を行うことで自尊心を満たそうとする自己愛の変調によるものでサイコパスではないと思う。その点で、コリン・ウィルソンが殺人百科で指摘したように、神戸の件は成長とともに治ってしまう少年犯罪であるだろう。
ひょっとすると、タブーを性的なものに摩り替えることで、異常にハードなプレイが心の隙間を埋めるような可能性もあるかもしれないが、矯正施設でそれを望むわけにもいかない。
投稿: y | 2014.08.04 21:16
どうでもいいよ。
世の中に戻さないで危なすぎるから
投稿: はー | 2014.08.06 00:42
文書に共感します。子供を愛するがゆえに、同居もいとまない。それが本当に大切なことだと、感じました。
投稿: | 2014.08.06 08:55
こんにちは。
主さまの仰るように、この場合娘に殺されようと思う親心を持った親が子を育てればこのようには育たないのではと思います。
又、我が子ならこの娘に殺されてもよいと思うような子ばかりではないということもありますね。
でも、子は冷たい人間に育てられれば少なからず冷たい人間に育つでしょうし、温かい人間に育てられれば温もりを携えた人に育つんじゃないかと思います。
面倒だから、おとなしくしてるからとテレビばかり見せていたり、ゲームばかりさせて子育てしたら歪みは必然的におきますね。
恐ろしい社会になりました。
投稿: かよ | 2014.08.11 15:34
>父親は殺されてもしかたないとして娘に向き合うことだった。
なかなか強烈な表現ですが、
そのくらいの強い責任感をもって子育てに向かうべきだった、と個人的に解釈しました。
あの父親には、そういった責任感が欠けていたように思います。
休日等に出かけると、子連れ親子をよく見るのですが、
本当に子供に向き合っているのだろうか、と思わせてしまうような、親子にも度々遭遇します。
典型的なのが、母親同士がお喋りに夢中で子供に目を向けず、
小さなお子さんがフラフラと危なげに
親御さんから離れて歩いているのを見たり…
「無責任」「事なかれ主義」
こういったものが
もしかして、事件の遠因になっているのではないか?
と思います。
投稿: るる | 2014.09.08 23:51