[書評]あそびあい(新田章)
ネットで話題になっていたので読んでみた。『あそびあい(新田章)』(参照)アマゾンで見たら売り切れていたので、アニメイトなら売っているんじゃないかと行って主婦風の店員に聞いたらまるで知らない。検索も大変そうだった。こんなマンガですよとケータイで表紙を示した。
あそびあい(1) |
物語は単純と言えばごく単純な恋愛物語である。ある障害があって二人の恋はなかなか進展しない。そこにいろいろ他の登場人物もまじって恋愛の悩みが繰り広げられる。読者はその恋の行方にハラハラとする。それだけである。源氏物語から「めぞん一刻」とか、まあよくある恋愛物語という感じだ。この物語で彼らの恋を阻んでいるのは、「幼さ」である。恋の。
高校二年生のややイケメンの山下君は、同級生の小谷ヨーコが好きだと思っている。物語は彼らのセックス・シーンから始まる。ヨーコいわく「山下のは後ろからが好きなの……」。山下君は答える「他の奴のはどうなのかって考えちゃうじゃん」。つまり、「の」というのはペニスである。ヨーコはすでに複数の男と関係をもっている。山下君はそのうちのワン・オブ・ゼムでしかない。
あそびあい(2) |
というわけで、ヨーコはビッチだ、こーゆー女いるよな、というふうにも読まれる。というか、その仕掛けがこの物語の特徴に見えるのだが、たぶん、この仕掛けは作者ではなく編集サイドの提案だろう。ビッチな女とフツーな男の恋の物語って、面白いんじゃね?というくらいの。
しかしこの物語が面白いのはその仕掛けではない。ヨーコとその風景のある確かな実在感だ。昭和から平成の時代の過渡期のような、写真をトレースしたようなつまらない風景だが、どの風景にも、どけちなヨーコが生まれ育ったある凡庸な貧しさの詩情が感じられる。
なかでもヨーコの住んでいる団地の描写は美しい。非人間的な団地に抑え込まれた人間のエロス性が解放された顕現としてのヨーコの身体には、団地のバルコニーを登るような生き生きとした生命感がある。反面、快楽としていいセックスをしたいとする、その単純な生命の充実は同時に倫理の欠落を伴う。団地より多少ましなマンション暮らし中年男・遠藤との退廃的な性関係のなかにそれは投影される。
女の心理的な実在感は、ヨーコよりもその親友設定の横井みおに見られる。心理的というのは妄想的と言ってもよい。表層的に性的に描かれる小谷ヨーコよりも、性の力に動かされているのは、みおのほうであり、それは彼女の視線とその先にある山下君の手に象徴されている。おそらく作者の情感は、実験的にヨーコとみおに分解されているが、おそらく一つの女である。
ゆえに物語は、山下君とヨーコとみおの三角関係ではおさまらない。恋と性を詳細化するために、山下君には年下の処女である椿が登場する。物語は二巻で、椿にとっては初体験のところで現在終わっているが、この過程で、性交渉というものがまた対比的に描かれることだろう。そして、おそらくうまく行くわけがないという読者の直観が物語を支える。
物語を物語としてたらしめているのは、恋の「幼さ」である。山下君はもろにその幼さを滑稽に押し詰めるが、同時にヨーコもまた、恋のもつ複雑さを性のなかで単一的にしか理解できない「幼さ」がある。あるいは、他者というのをそのようにしか受容できない「幼さ」である。寝入っている山下君の手が重たいとして振り払うシーンでヨーコは他者の輪郭をしっかり描きながらも、恋の輪郭を知り得ていない。物語はこのあと、ヨーコにとっても恋の成長のように進むかに見える。が、そこでもただ純愛に至ることことがないことは読者に予見される。
物語はどうなるのだろうか。ハッピーエンドなら駄作のギャグになってしまうだろうし、だが悲劇で解消される予見はない。かぎりなく悲劇に接近していかなければ、かぎりなく恋の切なさを喚起していかなければ、「幼さ」の意味は明らかにならない。
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