[書評]『Shall we ダンス?』アメリカを行く(周防正行)
先日『Shall we ダンス?』の日米版の映画を見て、ノベライズも読んだ話は「極東ブログ:[書評]Shall we ダンス?(周防正行)」(参照)に書いた。その後、本書、「『Shall we ダンス?』アメリカを行く(周防正行)」(参照)を文庫本のほうで読んだ。
『Shall we ダンス?』 アメリカを行く 周防正行 |
話は時間順に展開され、途中同じような話がぐるぐると循環しているような印象もあるが、映画産業論としても、また映画を基軸にした日米欧の体当たり文化論としても非常に興味深い。随所で「ああ、そうなんだよ」と頷くことしきり。
1995年からの数年といえばインターネットが興隆し、ヤフーやグーグルが現れた時期で日本からするとシリコンバレー的なITビジネスとして新しいトレンドのようにも受け止められたが、本書に描かれる映画配給ビジネスにも同質の熱気が感じられた。映画を見ている人でなくても、そのあたりからの興味で読み通せるだろうし、なんとなく気になったら、騙されたと思って読んでご覧、と言いたくなるようなタイプの書籍であった。
話の発端は『Shall we ダンス?』を北米で公開したいというオファーを持った若いユダヤ人女性が映画監督である周防正行氏を訪れるところから始まる。そこから、驚くような独白が監督から漏れる。「僕自身には映画を売る権利がない」。
多分ここで説明しておかなければならないことがある。僕は映画『Shall we ダンス?』の原作者であり、脚本家であり、監督であるにもかかわらず、一切の商業的な権利を持っていないである。なぜなら僕は原作者であり、脚本家であり、監督ではあるけれども、一銭の金も出資していないからだ。この金を出した者だけが一切の権利を持つという、奇妙な原則こそ、日本映画が後生大事にしているルールなのだ。
映画界の現状は知らないが、そうした実情を聞くと私などは驚く。その意味では周防さんにしてみると、映画を作るというのは仕事でもあるけど、趣味みたいなものとも言える。だから、北米上映についてのオファーを受けてもどう対応してよいのか困惑するというとこから、この物語は始まり、その後も類似の困惑に次ぐ困惑という、一種の謎の世界の冒険譚といったおもむきがある。
北米での上映が決まると聞けば、あとは字幕を付けるくらいなものだろう。プロモーションは多少大変かもしれないと、そのくらいは推測が付くのだが、これがとんでもないほどの仕事になっていく。まず監督を悩ませたのは、北米上映の映画は2時間以内という暗黙の決まりがあり、2時間を超えている『Shall we ダンス?』がずたずたにされる。さすがにそれはないだろうということで、結局周防監督自身が乗り出す。このカットの話が、逆に映画というものの内面を分解する独自の映画論になっていて面白い。
プロモーションのためには、北米各地でなんどもインタビューを受けることになり、本書の大半はその各地での紀行文になっているが、うんざりするほど典型的な対応や、理不尽な対応を受ける。ここまでやるかというのが延々と続く。そこが楽しめると本書の価値は高い。結局のところ、周防監督が日本文化を伝える巧まざるミッショナリーになってしまう。
個人的には、カナダとイギリスでの対応がアメリカとかなり違っているところが興味深いものだった。逆にアメリカにおける映画というもののが独自の文化現象なのだと言えないこともないが、同じ英語を話す国民とはいえ、国民を形成する文化的な情感の形成というのは大きな違いがあるものだ。トロントでは。
マークの話を聞いているとカナダと日本はとてもよく似ているような気がした。つまりアメリカ文化の大きな影響下にあり、若者は皆アメリカの方を向き、経済的にもアメリカの大きな影響を受けざるを得ない。アメリカとの関係がなければ成立しないような国家体制の中で、国としての独自性は一体どこに求めればいいのだ、という悩み。
ロンドンでは。
もちろん探偵はアメリカ以上に大受けだった。そしてこれには驚いたが、ブラックプールが映るだけで大爆笑。どうやら、なんでこんなダサイ街がいきなり出てくるのだという笑いらしいのだが、本当にイギリス人でさえあの街で全英選手権が行われていることを知る人は少なく、もっぱらブラックプールは時代に取り残された労働者階級のダサイ保養地としてのみ認知されているらしいのだった。
考えてみれば、イギリス人と日本人のジョークの質は近いのかもしれない。お互い、自分のことを皮肉るのが好きな国民だしね。つまり自分を客観的に見て笑い飛ばすのが好きでしょ。わざと自分を貶めたりして。
1995年は現在の若い人からすると、私が70年代を懐かしむような感覚かもしれない。本書に描かれている文化摩擦のような感覚もすでに終わった時代かもしれない。ただ、今ふうの三行でまとめられない微妙な、人が文化の中で生きているということを伝える不思議な紀行文に今でもなっている珍しい書籍であった。
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コメント
この間おすすめでした「Shall we ダンス?(周防正行)」を注文した時に、一緒に注文しようかどうしようか迷っているうちに、他の事に追われて気忙しかったので飛んでしまったのですが、やっぱり頼めばよかった!
イギリスの話が出てくると昔のことにもかかわらず、何故かついこの間のことのように回想してしまいます。ここで言われているように、イギリス人のジョークは、自虐とも思われるし、日本の謙遜のようでもあります。私は若かったので、例えばMr.Beanなどは悲壮感さえ漂うように当時は感じていました。
リアルに表情を見ないと誤解してしまう微妙なニュアンスです。
国民性の違いなども面白そうですね。
ここで注文します。(Amazonはプレミアムなので送料を考慮しないせいか、すんごく気楽に発注していてちょっと気が引けます。一度にまとめなくてゴメンかな。)
投稿: godmother | 2009.09.19 17:49
ハードカバーが出たときに買いましたよ。たしか中州のリバレインの中にあった本屋で買ったような記憶が。
>プロモーションのためには、北米各地でなんどもインタビューを受けることになり
映画もそうだけど、本もそうですね。アメリカで本書いたらプロモでどさ回り(インタビューツアー)しないといけないらしい。
投稿: himorogi | 2009.09.19 19:31
>多分ここで説明しておかなければならないことがある。僕は映画『Shall we ダンス?』の原作者であり、脚本家であり、監督であるにもかかわらず、一切の商業的な権利を持っていないである。
勘違いされると困るのですが、著作権法上では、著作権は監督のものです。
しかし、紙とペンがあれば書ける文学作品等と違い、映画を撮るには相当の資金がかかりますから出資者を募る際に出来上がる作品の著作権を譲渡してしまうんです。(最近よくみかけるxx製作委員会などへ)
もう一ついうなら、米国でも70年代までは同様でした。監督というのは俳優と同様に製作会社から雇われて映画をつくるというのが常識でした。この時点ではビデオも発達していないので、著作権を持っていても今のように版権ビジネスを使ってお金を生み出すことができないのですからしょうがありません。
それに叛旗を翻したのが、あのジョージ・ルーカスだったのですが、その話は著作権ビジネスと絡んで非常に興味を惹く話題なので、詳しくはルーカスについて書かれた著作を呼んでください。
投稿: F.Nakajima | 2009.09.19 20:56