毒物カレー事件最高裁判決、雑感
毒物カレー事件最高裁判決について、もう少しメディアで騒ぐのかなと思ったが、自分が思ったよりは騒ぎはなかったように思えた。別の話になるが、タレントの清水由貴子さんが自殺したと見られるというニュースもあった。哀悼したい。が、これもそれほどには話題にはなっていないような印象を受けた。どちらもごく私の印象に過ぎないのだが、なんとなく十年といった時間が自分が思っているより遙か遠くに過ぎ去ってしまったということかもしれない。
毒物カレー事件最高裁判決だが、私は若干差し戻しを期待していた。もっとも高裁の控訴審判決を見ればそう予想はできたはずもなかった。
私はこの事件だが、個人的には冤罪だろうと思っている。仮に林被告が犯人だとしても死刑判決にすべきではないと思っている。そのあたりを無名の人の思いとしてやはり少しブログみたいなものに書いておくべきかなと思う。
とはいえ、「冤罪だ、不当だ」と強く騒ぎ立てる思いというか感情的なものはない。一つには、この裁判についていえば、私は警察の捜査も検察もまったく不当だと思っていない。きちんと仕事をされたと思うし、なんら理不尽なことはないと思う。さらに言えば、裁判官についてはどうかというと、これも不当だとも思わない。では、死刑判決に納得するかというと納得しない。依然冤罪かなと思っている。そのあたり、なにが違うんだということになるが、私は、法理っていうものが、その分野の一種の科学的ともいえる確実性を持っていながらも、どうも根幹において納得できない。あるいは、その最終に死刑が居座っていることに、やはり納得できないというのがある。別の言い方をすれば、死刑がないなら、それはそれで、そういうものかなという思いは強くなる。
私は個人的には冤罪だなと思うのだが、そう書いた以上、自分の理屈なりを述べるべきなのだが、素人的な思いという以上はない。つまり、この事件、証拠は何もない。また、私の人生経験・世間の経験からしてこういう裁判が描いたような殺人はありえないと思うという心証だけである。
もう一つ加えるなら、先ほど法理というか、裁判の制度がこれでいいのかなと思ったのは、一応今回の裁判は三審制を取り、きちんと最高裁に上げられてはいるし、高裁ではなんども控訴審があったのだが、そして私の単純な誤解かもしれないが、基本的に地裁の裁判の構図をそのまま引きずって、高裁でもそれでよし、最高裁でもそれでよしということになっている点だ。私にはこの事件、地裁の後の控訴審判決が地裁と違いはなく、控訴審の過程での疑問が十分にこなされていない印象を受けた。
もうちょっと言うと、これはほんとに素人の印象にすぎないのだが、地裁では被告は黙秘を続け、判決が出てから、被告と弁護側がその判決に対抗するという形で供述をしたことが、なんというか地裁判決の法理に美しさとでもいうものに対する挑戦と見られたのではないか。そこがなにかボタンの掛け違いのように思える。今回の最高裁判決でも、本人の悔恨が見られないことを指摘しているが、悔恨なりは、ヒ素投入と同義ではなく、どの程度のヒ素でどの程度の死者が出るかという被告の内面の推量認識に関わっているはずだ。だが、そこが抜け落ちているように思える。別の言い方をすると、数百人も殺害しえるヒ素であっても本人は死ぬほどではないと思っていたと地裁で言ったなら、死刑にはならなかったのではないか。そのあたりの、一種の司法取引のような余地が、後出しじゃんけんはダメよ的に提示されるのは、どうなんだろうかと疑問に思う。
この点は大阪高裁ではこうなっていた。読売新聞「和歌山毒カレー控訴審判決の要旨」(2005.6.29)より。
被告は、いつでも犯罪に使用できる状態でヒ素を保管しており、事件は、被告が、ヒ素を飲食物に混入させて人を殺傷しても決して発覚しないという前提で敢行したものと考えられる。
その具体的な動機目的は不明というほかないが、およそ人を殺傷する理由とはならない理不尽で身勝手な動機目的のために犯行に及んだことは確か。犯行態様は、単に無差別的な犯行というにとどまらない。被告は、ヒ素が少量でも人を死亡させ、または重篤な神経症状を引き起こす猛毒であることを知り尽くしていたこと、混入させたヒ素の量も、450~1350人分の致死量に相当する量だと認識していたはずであることなどにかんがみると、誠に冷酷で残忍な犯行といわなければならない。
これは私の常識には合わない。まず、「混入させたヒ素の量も、450~1350人分の致死量に相当する量だと認識」というのだが、もしそうであれば、これはオウム真理教による松本サリン事件や地下鉄サリン事件に匹敵する無差別大量殺人であり、まさにオウム真理教が問われたように、このテロの思想的な背景が問われうるほどのものだ。が、林被告にそういう意図も思想もあったとは思えないし、また、ヒ素による健康被害を知りそれが致死の可能性を知っていたとしても、数百人の死者を出そうと意図された事件だったとは到底思えない。繰り返すが、であればこれは一種の思想の事件のはずである。
また、このような大規模なテロのようなものを「決して発覚しないという前提」で行うというのがまた私には理解できない。必ず発覚するだろうと私は思うし、別の事件に関連する彼女の夫も同様に述べているが、判決では、被告はそういう認識はなかったとするわけである。
事件や裁判プロセスのディテールについては、いろいろと詳しいかたの議論があるだろうと思うが、私はごく自分の常識からして、この事件と判決はそれほど受けれやすいものではない。冤罪の可能性は捨てきれないなか、死刑出ていることには恐怖するものがある。
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コメント
テレビ裁判みたいなん、コワ杉
投稿: | 2009.04.22 12:29
この判決は、民主的ではないですね。元被告が「冤罪」だと訴え続けているにもかかわらず、状況証拠だけで最高裁までもがこのような判決を下すとはおかしいです。
ただ、来月から始まる裁判員制度では、例えば私がその一人なら、「ごく普通の常識」を持ち合わせて判断した時、犯人と断定できる証拠が無ければ、たとえそれが最高裁であれ、それは「被疑者」として深く審議されるべき事だと、言い続けると思います。
「疑わしきは被告人の利益」(疑わしきは罰せず)なのだと思います。
繰り返しですが、証言の裏づけになる証拠もなく、状況証拠だけで立件されたまま犯人と断定し、死刑の判決を下すというのは、世界中の普通の人は、それだけで認めない筈です。というか、日本っておかしな国です。特別の思い入れや、加勢するつもりもありませんが、おかしいことはおかしいと、ここで言わせてもらっています。
投稿: godmother | 2009.04.22 12:54
弁当翁さんの書き方だと古い田舎によくある式の人身御供を想起させるから、だから嫌ってことなんでしょうか? それは確かに遺憾ですね、みたいな。
明暦の大火って、弁当爺さんの常識では「有り得ないような馬鹿な動機」で10万人だか焼け死んでますよね。誰も放火現場を見ているわけでは無いから、法の定義から言うたら、お七と林被告は同じようなもんですよ。
理屈の上では100%完全な犯行だと認識されなければすべての事件は冤罪でしょうから、冤罪に対して極刑が出るのはオカシイ式の疑義も当然でしょうけど、その発想・手法だと、公衆の面前で刃物でも振り回して殺傷事件を起こさない限り(そういう人、居ましたね)…バレない様にコッソリやりさえすれば、誰をどういう手口で何人殺しても「冤罪だって言い張れば死刑だけは無い」(だから安心?)って言ってるのと同じになります。最悪です。
世間一般は普通に形而下の発想で動くわけですから、そんな言い分は「下司の言い逃れ」でしか無いのでは?
下手に形而上の発想を持ち出して疑義を呈しても、多分普通に駄目ですよ。形而上の評価として良き方向へ進めたいのであるなら、形而下の発想しかできない?人には「先ず形而下の発想で満足させる」しか無いでしょ。カエサル的に。
大抵の人は見たい現実しか見ない、見たくない現実は見ない。人間は、世間は、今も昔もそういうもんですよ。違いますかね?
言っちゃ悪いですけど、本文の言い分で納得するのは左翼系マスコミと犯罪者とやくざの片棒担いで喜ぶ弁護士連中だけですよ。企業にも悪い人は大勢いますから、そういう人も喜ぶかなぁ…。それ以外の凡そ全ての界隈にて「真面目にまともにやってる人」は、「お前みたいなヤツがのさばるから世の中可笑しくなるんだ」とか言いたくても言わずにニコニコしてるんじゃないですかね?
多数派(少数派)ゲームにて十中八九「どっちが多いか少ないか」見切れる私的には、今回の本文は、駄目だと思います。私に「コイツ駄目だ」と見切られたくて書いたと言うなら、それはそれで結構な感じですので、そのように仰って頂ければ、以後ニコニコしてます。そういうことで。
投稿: 野ぐそ | 2009.04.22 13:55
こんにちは。横レスするのもあれですが、finalventさんの意見にはまあ、わからなくもない、と思いましたが、godmotherさんの意見にちょっと引っ掛かったので。
つまり、状況証拠だけで~おかしい、の部分なのですが。
まず、毒殺と言う手段を取られた場合は直接証拠はほとんど出ないのではないかと言う事です。
何故なら犯人はわからないように毒を入る訳で、その瞬間を目撃された時点で阻止されるか現行犯逮捕となるでしょう。
大体に置いては状況証拠を積み重ねて立証するしかないのが、毒殺と言う方法だと思うのです。
この事件で検察側はその点きちんと積み上げて示している訳ですから、有罪が出たのは当然と言えるのではないでしょうか。
仮に彼女が冤罪だとすれば、証拠が示す真犯人は林家の他の誰か、となると思います。
投稿: 咲花 | 2009.04.22 17:59
覚めた目でものを見る、時に語る・声を上げるという事は大事ですし、まぁ何時も何人かぐらいはそういう人が居ないと、世情は一方に煽られっぱなしの凧みたいにグングン飛んで行っちゃうんで、良いと思いますよ、こういうメモを残しておくのは。
で、まぁ何の仕事をしてるのか最後まで分からず収入源が如何わしいくせに尊大で粗雑な人ってのは、多分こういう時に全部背負わされて使用される捨て札なんでしょうよ。
少なくとも何割か実際に本人周辺にそういう素養で持って利得があったでしょうし。
投稿: ト | 2009.04.22 18:06
野ぐちゃんの長文は相変わらず本人以外には無意味だなぁ
要は、
精度が98%でもOK出すか
or
あくまでも100%を求めるか
の話だと思う
投稿: | 2009.04.22 20:13
はじめまして。
この事件、冤罪かと言うと、そうでは無いように思います。
カレーに砒素を入れた事と一見無関係ですが、保険金詐欺をやっていたのは事実だったと記憶します。
当人でないと不明な事ですが、保険金詐欺を繰り返し、詐欺でいつかはつかまる(当時の記事では保険金殺人、数件の疑い、みたいな記事もあったように思います)、でもまだお金がいる、又詐欺しないと、と思いながらの生活を、どこかでSTOPさせたかった、と言う面があるのではないでしょうか。
それは良心の呵責に耐えかねて、と言う事ではなく、もうこんな生活イヤ、みたいな事だったのではないでしょうか。おまけに近所では有名なおかしな夫婦、と言う噂は、当人にも聞こえていたでしょうし。
それがカレーに砒素を入れると言う、犯行に結びつくのかどうかは、余りにも飛躍しているので、普通に考えれば、合理的ではありませんが、犯行に合理性がいると言えば、じゃ、通り魔犯は合理的な犯罪?と言う事が言えるのと同じで、特に合理的な理由はなくても、自らのこれまでの保険金での悪事が、かりたてたカレー事件、と言う事ではないかと思います。
冤罪とは考えにくい。
これまで自白しなかった、あるいはこれからも自白しないでしょうが、それは、子供への最後の愛情、と言う事では無いでしょうか。
投稿: Jamira | 2009.04.22 21:14
野ぐそさんの言ってることは毎度よく分からんですね。やたら長いんだけど。
多分読まれることを想定して書いてるわけじゃないのかな。毎度そんな印象。
見切ったらいかがです?ニコニコして。
私もカレーに関しては冤罪の感が拭えないんですよね
本当になんとなく、だけど。
というか、動機や合理的ナントカなど、釈然としないまま死刑確定ってやっぱ恐ろしいです
推定無罪、疑わしきは罰せずっていうのはなくしていく方向なんでしょうかね
投稿: 名無しでいいでしょう | 2009.04.22 22:00
証拠を見ていないのでなんともいえませんが、この事件では無罪かもしれないという合理的な疑いが依然残るように思います。
合理的な疑いが残るなら有罪判決は下せないはずですが、そのあたりの最高裁の判断プロセスは見えませんね。
立証不十分ならたとえ真犯人でも釈放せざるを得ないし、むしろそうすべきだと割り切っているのが日本の法制度だと理解していますが、法曹も社会からの必罰主義的な批判に弱いのかなと最近思います。
投稿: summercontrail(左近) | 2009.04.22 23:32
毒殺に完全な証拠は期待できない、治安維持のためには状況証拠だけの有罪もあり、それはわかります。
しかし状況証拠にしても犯人を特定できる精度が重要でしょう。
今回の状況証拠だけだと、「それって林家の娘さんでもできたんじゃないの?」ってアホな俺は思うんですよね。
「疑わしきは被告人の利益に」って林家の娘さんを有罪にしないためにも必要なんですよね。
「疑わしきも罰する」にすると、「疑わしき人」がたくさんいるもんだから線引きが難しい。
ワイドショーの報道(笑)によると保険金殺人の疑いもある林被告はたとえ冤罪でも有罪にしてもよし。でも法律知識もなく、わかりやすい治安維持にしか興味がない、アホな俺の意見とぴったり整合してしまうような判決はダメでしょ?俺が裁判官だったらみなさん嫌がるでしょ?
投稿: アホによる素朴な疑問 | 2009.04.23 01:00
私はこの事件は「冤罪」とは思っていません。
ただ、「有罪判決」を下したのは、間違いであると思っています。
有罪判決、しかも人の命を奪う「死刑判決」に関しては特に言えますが、真犯人が別にいる可能性がわずかでもあれば、「無実」でなくとも「無罪」とするべきだと思います。
本件の場合、状況証拠の積み上げによって、
「この人が一番疑わしい」
ということで導き出された判決です。
確たる証拠があるわけではありません。
自宅にあった「砒素」と現場で検出された「砒素」が同一である。という部分については立証されているようですが、
鍋に入れた人間が林被告であるという部分は、全くの推論です。
見た人間がいるわけではありません。その鍋のそばにいたのを見られているだけです。
入れるような理由も、本人が話さないばかりでなく、周囲の人すら「動機がわからない」と言っています。
動機のない殺人事件はありません。
もし動機がないなら、その犯人は精神的に正常ではないと考えるのが妥当で、これは罪を問えない物です。
報道の中で「砒素の成分が一致した」とありますが、この日本でどれだけの会社が「砒素」という特殊な分野の毒物を精製しているのか全くわかりません。想像するしかありませんが、ごく限られた数でしょう。
仮に5つの会社が作っていたとしましょう。それを精製元を正確に割り出せるとしても、5分の1の確率に過ぎません。
被害者感情を思えば、このような発言は忌避するべきかもしれませんが、 どんなに疑わしくても、証拠のない人間を死刑にするべきではないと思います。
日本の裁判では、「心証審理」いわゆる、裁判官が受けた法廷での「印象」とう、いわば曖昧なものが重要視される傾向にあります。
法廷での被告人の発言、態度などを見て判断する部分が大きいということです。
今回の判決でも、「反省の色が見られない」などといった意見は、そこから来ています。
黙秘権、というものがあります。何人も自己に有利不利を問わず、発言を拒む事ができ、それを被告人に不利な物として扱わない・・・とされています。でも、これは有名無実で、黙っていれば疑われるのが日本の裁判です。
今回の事件はおいといて・・。
もし、ある日自分が無実の罪で捕らえられたとして、どんな言い分も、無実の主張も、取調べ段階から聞き入れてもらえなかったら、裁判でふてくされて口も利かないかもしれません。
その時裁判官は、どんな心証を受けるでしょうか?
「黙秘」との報道に、社会の人々はどんな印象を受けるでしょうか?
前の方のコメントにあるように、「推定無罪」「疑わしきは被告人の有利に」などはただの綺麗ごとであって、実際の裁判の現場には存在しません。
今後の「裁判員制度」(私は反対です)により、この傾向は一層強くなる事が予測されます。
雄弁に声高に無実を叫ぶのか、やってない・・やってない・・と、泣いて見せるのか、時には「いい加減にしろ!」とぶちぎれて見せるのか。
いずれにしても、劇場型の裁判に傾いてゆくでしょう。
投稿: たかはし | 2009.04.23 01:52
疑わしきは罰せずの考え方って、見方を変えれば真犯人を取りこぼす可能性も孕んでいるわけで、もし林被告が真犯人でありながら推定無罪で見過ごされた場合、それは冤罪と同程度には不条理な事ではないでしょうか。
そう考えると、「物証無しの案件は全て無罪」と単純に線引きしてしまうのも、それはそれでどうなのかなぁと思えてなりません。
ただ死刑に関しては、冤罪であった場合取り返しがつかないですし、今回のようなケースで適用されるとなると確かに怖いなぁと思います。
投稿: nnn | 2009.04.23 04:38
で、あるならば、スプリング8で確定された同じヒ素を容疑者宅もしくは同一の物をどこかから入手し、カレーに近づいても不思議ではない、もしくは目撃されなかった真犯人がいるということになる
この犯人はどんな動機を持っていたのだろう
近づいても不思議ではないというならば、そして、使用量がテロでも不思議ではない量ということから考えて、毒物に詳しくなく適当に使用したのではないかという推測も成り立つのではないか
この条件に当てはまり、容疑者が黙秘して庇う相手とは容疑者の子供がやったのでは、と容疑者が考えていると推測することは出来ないだろうか
とか、でっち上げてみた
投稿: ほっさん | 2009.04.23 06:49
たぶん、林被告は犯人なのでしょう。
でも、あるのは状況証拠だけで、彼女の意図も動機も誰に対する殺意なのかもわからず、犯行の準備と実行の手順も具体的にははっきりとわかっていない。それで、殺人罪としてしまう。
正直言って、まず、死刑判決という解答が用意されていて、それに向かって警察も検察も捜査と作業を進めて、裁判所も三審まで論告求刑どおりの死刑判決だった、というストーリーのような気がします。結果がこう出たからそう見えるだけかもしれないけれど。
この国は、本当は、とんでもなく恐ろしい国なのではないか、と正直思っているんです。
そうしたら、千葉市の市長が警視庁に逮捕されました。なお、贈賄側は公訴時効なんだそうです。
この国の本当の権力者って、いったい誰なんだろう?
投稿: enneagram | 2009.04.23 08:17
99%で合法・100%で違法てな判断なんかしなくて、0か1か、0(潔白)じゃ無ければ1(瑕疵・疑義)さえ許さないって人も多いんですよね。一方では。
今の今まで弁当翁さんの発する疑義のような感覚が(ある意味)主流で、それがゆえに、近年加害者の過保護や被害者の放置や、果ては犯罪行為の組織化・広域化・隠蔽化・健全企業?の犯罪傾斜化が加速して、法は何らか対応しなさいよ? って流れになってたんじゃないかと。
「法で対応」なら法改正が先ず適切ですけど、それをやらなくて運用基準の変更だけで対処しようとするから、民意に沿うという形での恣意が幅を利かせて、結局空気で動くだけっていうか。
私(野ぐそ)の場合だと「6,7割は見切れるけどそれ以上は知らん」からゼロサム志向は短絡に見えて仕方ないし、99%まで(実質)放置で100%になったら(泥縄)対処って馬鹿なの?としか思えないんですけど。99%アウトでも100%認定できないなら黒でも白だと言いくるめるタイプの人からすれば、私の方が「アホで短絡」なんでしょうね。理屈と膏薬はどこにでも付きますから。
※1 0(潔白)か1(100まで待てない)かで判断する。0じゃなければ全部アウト
※2 50・50くらいが理想だけどそれじゃあ(時節に応じた)利が出ないから6,70くらいまで傾斜する(±は、その都度判断)けど、99とか100とか、そんなん言うてる時点で基地外認定
※3 100でアウトで99(.999…)はセーフなんだから、じゃあ限界ギリギリまで逝こう(許そう)じゃないか
大まかに分ければ、こんな感じかと思います。
今までは※1か※3が主導権を奪いあう?ような感じだし、弁当翁さんの言もその筋ですけど、裁判員制度に始まる司法制度改革ってのは、
※2に判断させて「±6,70的な感覚から超越してるよね」って言わしめる(そのことを、検察・被告双方への歯止めにする)のが主眼の筈。
そういう流れだって分かっているから、野ぐそさんは「今年からは疑義が深まれば遠慮なく切る」って言ってる。んでまあ、実際のところ切込隊長とか、ああいう型の連中は除外してる。
そんな流れが、今後しばらく世の主流じゃなかったでしたっけ? そこから見てズレたこと言ってるように見えるから、弁当爺さんの言は駄目って言ってるんです。
投稿: 野ぐそ | 2009.04.23 08:46
法律を扱うときでも、日本では、「ケガレ」を嫌うっていうのがあるんでしょうか。
この毒物カレー事件というのは、鎮守の神社のお祭りの食事で振舞われたカレーに亜ヒ酸が混入していて起きた事件だけれど、地方の神社のお祭りという、地方の地縁血縁の共同体の結束行為にたいする毒物(の「ケガレ」)による共同体破壊行為に対しては、刑事事件の司法の場でも、ある意味「リンチ」まがいの処刑が許されるというのか。まさか、それが和歌山県警や大阪高検の意思とはとても思えないけれど。
なにか、「殺人罪だから死刑」なのではなく、(聖なる)共同体の(汚毒による)破壊行為だから死をもって償わせないといけないという感受性があるのではないかとも思うんです。
だから、この最高裁判決に対して、マスコミも国民の多くも当然のこととして受け止めているのではないのかとも考えました。
投稿: enneagram | 2009.04.23 12:15
この事件のこの判決のことを考えていて、自分の社会人になったばかりのころにあったある事件を思い出したんです。どうか、その話をさせてください。
大学を卒業して、最初の就職先に入社して、3ヶ月間の試用期間の工場実習をおえて、正式な部署の研究所に着任したとき、同期入社の社員に、東北大学農学部卒業のひどく変わった人がいたんです。
その人が変わり者過ぎて、独身寮でもトラブルばかり起こし、研究所でも回り中から総スカンだったんです。それで、研究所長も捨て置けなくて、寮生会議を開かせたり、所長室に研究所のスタッフたちを集めてその新入社員を取り囲ませて詰問させたり、追い出し作戦を展開したんです。
本社の人事部は、幹部候補生で、社長が直接面接して採用した人だから社長の面子をつぶさないためにも穏便にしてくれと頼み、研究所員も加入している工場の労働組合は本採用になった人の解雇などとんでもないという態度だったのだけれど、研究所長(この人は後にその会社の代表取締役常務取締役まで昇進しました)は、とうとうその人に無理やり辞表を書かせて、会社から追い出しました。
この新入社員が何でこんな目にあったのかというと、この人が素行の悪い人だからとか、仕事ができないからとか、それだけでなく、研究所という共同体の破壊者であり、汚毒者だったから、共同体から、共同体の責任者の手によって追い出されたわけです。
私の経験のアナログ(類似物)として、林被告の扱いを類推すると、林被告を死刑にしなくてはならないのは、彼女が殺人犯であるからというより、共同体の破壊者、汚毒者であり、彼女を処分しなくてはならないのは、彼女のような人間に情状酌量の余地を与えては、公権力が国家や自治体を非常に統治しにくくなるという、政治上、行政上の都合によるものではないかと思ったのです。
わざわざ最高裁でも死刑判決を出したのは、以後、林被告のような犯罪を行うものは、上告しても、この判例を以って上告を棄却し、二審を結審とすることができるようにするためにもそうしたのかなとも考えました。
林被告の死刑判決が不当だとはいわないけれど、私自身は、法治国家は、訴訟法を徹底遵守した裁判を行ってほしいものであると考えます。政治や行政の経済に司法が従うべきなのはどういう場合なのか、司法関係者はよく考えてもらいたいと思っています。だれもが公正な裁判を受けられるためにも。
投稿: enneagram | 2009.04.23 13:46
事実誤認していてすみませんでした。
最高裁は、上告を棄却したのであり、第三審でも審理の結果死刑判決を結審したのではないことを確認しました。
誤解した文章を書いて紛らわしい思いをさせてすみませんでした。
投稿: enneagram | 2009.04.23 13:56
単純な疑問なんですけど、「1%でも不確定要素がある場合は絶対に無罪にすべき」という考え方は、「99%真犯人である可能性」を軽視し過ぎていませんか?
「もし自身が冤罪に巻き込まれたら最悪」というのは至極もっともな意見だと思いますけど、「もし自身が被害者の立場になって、99%黒の人物が推定無罪で見過ごされたら」と仮定すると、こちらはこちらでとても納得できる気がしません。
じゃあ何%黒なら有罪にしてもいいのか、の基準は難しいですけど、個人的には証拠の確度は刑の程度に関連させる(「疑惑が残っていれば全て無罪」ではなく、「疑惑が残っているから死刑は回避」のように判断をする)のが一番マシなのではないかと思います。
野ぐそさんもおっしゃっていますが、白黒50・50までならともかく、40・60でも30・70でも1・99でも全て推定無罪にすべきだというのは、個別の状況を無視しすぎていて、ちょっとアンバランスに思えてならないです。
投稿: nnn | 2009.04.23 15:39
野ぐそさんの意見に賛成です。
finalventさんが人権派弁護士みたいなことを言うとは驚きました、と同時に残念です。
今までどれだけの被害者、遺族が苦しんできたか。
裁判員制度はそういう法曹の常識から一般市民の感覚を持ち込むのが狙いではないのでしょうか?
状況証拠からでも明らかにクロと判断されるなら相応の判決が出ることは間違っているとは思いません。(この判断の主体として国民が参加するべきだと思っています)
なお、死刑の是非についてはまた別の問題と考えています。
投稿: xxx | 2009.04.23 19:21
の具そは生命への尊厳が足りない
投稿: | 2009.04.23 19:52
自分に落としてみれば、冤罪でこんなに人生が狂ってしまうのは非常に恐ろしいことでしょ。
だから事実の立証が確実に必要なのに、そうでない状態でババアを一人処刑してしまった。
まあ、いいか、ババアだし。
と思うしかないのかな・・
これを反省とし、疑わしき行動は
とらないようにしようという教訓ではあるか。
投稿: rabi | 2009.04.23 20:04
エレファントなんとかいうグループの宮本という人がDJにキれたとかいう話や、今日の草なぎという芸能人が泥酔の上全裸になった話とか、この林被告の話とか、
声なき非難に耐え切れなくなって、それを暴発させたら、いみじくも、上のほうで言ってますけど、共同体から締め出しをくらった、という構図が見え隠れする。
イラクでとらわれた3人の自己責任論とかとも似通ってますね。
もちろん、彼らがしたことは罪の軽い重いは別として、認められない。だが、声なき非難の主は裁かれないのだろうか。
信仰心のない人間は他人を非難しても自らを省みることはなく、ただ自己とその周りの安定を図るために個人を抹殺するかのような言動を繰り返し、その罪深さにも気づこうともしない。
罪を犯した人間になら、個を抹殺するような言動も許されるのだろうか。それは別として考えられるべきものだ。
ネット上の文章に対する炎上といわれる現象も同じだ。そこまでして、いったい何を守ろうというのだ?
守るべきものなどないのに、いったいどうしてなのか。
投稿: ぷるきんえ | 2009.04.24 01:41
インターネット上における名義の在り方にも通じるんで、ひと言。本名であろうがハンドルネームであろうが、継続的に使用するか、変更などがある場合少なくともその旨は通告すべき?なんですね。私やってますけど。しないと、自作自演と(今は知らんけど)往年の切込隊長の温床になってしまいますから。
人によっては本名を出して言動することに抵抗感や違和感を持たれる場合があるから(私も、そう)、完全実名と規定したら却ってコメントをする人たちの自由が奪われてしまう可能性が、ある。なので、名義をある程度自分の自由意思で決定できる権利は、保有すべき。
でも。だからと言って投稿者個人に完全な自由を委ねてしまったら名無しの罵詈雑言が満ち溢れてしまっても、それを規制する術が無くなってしまう。そうなると、特定個人(例えば野ぐそ)が「切込隊長は(今までそうだったし今もそれと思しき事例が散見されるので)手口が狡猾過ぎて駄目」と言おうものなら、直ぐに罵詈雑言が飛んでくる。そういう現象が発生することによって「なんとなく空気」が出来て敬遠しがちになる。
私(野ぐそ)はそういう原理がどういう帰結を生みだすのかある程度知っているから「そんなもん無視」という対応が出来ますけど、普通の人はそんな原理も帰結も知らないから、やられたら確実に恐怖しますよ。学校のイジメで靴箱にゴミを入れられるとか、誰がやったのか分からない事件って怖いでしょ? やってることが同じ。
で、私のように歯に衣着せない質の人間が嫌になって?投稿止めたら、名無しと空気と自作自演が支配する世論工作体質がまた盛り返すだけなんですわ。前述コメントで言うところの「※1と※3が綱引きとちゃぶ台返しを延々続ける」体質のままになってしまう。
それは、もういい加減駄目なのでは? ってことです。事件の性質が違うから疑義で死刑と疑義で無視は同列に出来ませんけど、だからと言って手心を加えると、じゃあ誰がのさばるのか。そこを考えられたし。
あと言うなら、コメント数って全視聴者・閲覧者の数%…雑誌ベースなら3~5%、ブログなら1%未満ですよ。大抵は。その中で特定話者に名無しの集中砲火があること自体、2ちゃんねるのような超巨大掲示板なら兎も角、個人運営の小ブログなら(カウンター的に名無しか捨てネームが発生したら)、先ず自作自演です。
投稿: 野ぐそ | 2009.04.24 09:20
> これは私の常識には合わない。まず、「混入させたヒ素の量も、450~1350人分の致死量に相当する量だと認識」というのだが、もしそうであれば、これはオウム真理教による松本サリン事件や地下鉄サリン事件に匹敵する無差別大量殺人であり
これは短絡的です。例えば、カレーが50人分程度なら、50人程度を対象とした犯行と見るべきではないでしょうか。参加者の人数なども関係するので、致死量だけでは決まらないと思います。
また無差別大量殺人だと思想を問われるものというのも、良く分かりません。もしfinalventさんがこの手の犯罪に及んだ場合(無いとは思いますが、例えばの話)、思想上、何かの理由があるはずというだけの話ではないでしょうか。
誰もが、そういう思想上の理由でしか無差別大量殺人を行わない訳では無いと思います。
まぁ、状況証拠のみで死刑と言うのを問題視するのは分かります。無期懲役で40年後くらいに出てくるとかなら、もう少し印象も違っていたとは思います。
投稿: どーも | 2009.04.24 13:03
「野ぐそ」さんが執拗に切込隊長を非難してて、その「切込隊長」というのは、まだ私を切込隊長(山本さん)と勘違いされているのかもしれないけれど。まあ、それでもいいんですけれどね。
ただ、finalvent先生が切込隊長を否定する論陣をはっていて、それを「野ぐそ」さんが応援しているのなら、このブログの正しい使い方だと思うのだけれど、基本的にこのブログとブログの読者たちは切込隊長に対してはある意味好意的に思われるので、切込隊長と対決するためにこのブログでコメンテーターをしているのだとしたら、それはやり方がひどく非効率だと思います。
わたしも、阿含宗の桐山管長とか銀座まるかんの斉藤一人社長とかこのブログで悪口言っているけれど、これは、ブロガーの仏教に対する基本姿勢とか、資本主義に対する基本姿勢とかとそれほど隔たってもいないと思っているんでこのブログを非常に有効なメディアとして使わせてもらってブロガーに迷惑かけているんで。
「野ぐそ」さんが切込隊長と本当に対決したいのなら、きっと、もっと効果的なメディアがあると思うのですけれど。このブログで切込隊長を非難しても、何か、いずれは自縄自縛みたいなことになってしまうような気がします。
投稿: enneagram | 2009.04.24 13:54
段落と段落の間に【空行】を入れて欲しい。
途中まで読んだが、最後まで読む気にはなれなかった。
投稿: | 2009.04.25 10:16
話が飛躍するんですけど「江戸の敵を長崎で討つ」って諺はそういうような様相がしばしば在るし、そういうものだという人間世界への認識を短い言葉でまとめてるのが第一義であって、それが誰かに向けられた場合は多かれ少なかれ対象への悪意を含有すると思います。
それが敵側への悪意なのか或いは微妙に?筋違いな敵討ちをする側への悪意なのかは、それを口ずさんだ者・それを聞かされた者の意識のありようでケースバイケースみたいですが、さて。
毒カレー事件の彼女の今回の判決はというと「長崎で討たれた敵」という事でしょ。
「江戸の敵を長崎で討つ」ような流れを公権力が安易に認めたり続けると世情は平衡を失いますから、まぁ気をつけておくれよって事ですね。
投稿: ト | 2009.04.25 12:39
>私は個人的には冤罪だなと思うのだが、そう書いた以上、自分の理屈なりを述べるべきなのだが、素人的な思いという以上はない。つまり、この事件、証拠は何もない。また、私の人生経験・世間の経験からしてこういう裁判が描いたような殺人はありえないと思うという心証だけである。
逆に、私の経験からすると、おおいにありえることだとしか見えないのです。
例えば、衝動的に刃物で人を刺すというのはよくある話で、これが米国だと銃が手近にあるため銃を撃ってしまうわけです。今回の場合、林死刑囚がたまたま砒素が手軽に使えたということに過ぎません。
finalventさんというのは、衝動というのがない、仏様のような人なのかと問いたくなりますがね。
投稿: F.Nakajima | 2009.04.25 17:44
>99%アウトでも100%認定できないなら黒でも白だと言いくるめるタイプの人からすれば、私の方が「アホで短絡」なんでしょうね。
私は野ぐそさんがアホだとも短絡的だとも思わない一人です。
後述しますが、99%アウトなら完全にアウトです。
100%でなければ是非の判断が認定できない人は、自己責任をとりたくない人なのでしょう。100%確実なら、言動の足下をすくわれることはありませんものね。
こういう人は、友人が自殺すると「それほど困っていると分かっていたら援助したのに」と言う人でもあります。
自死という、これ以上はない(つまり100%)という状況を見なければ困窮度が理解できないわけで、こういう人たちと論議を重ねても不毛です。
書き込まれたコメントを読んで感じたのは、状況証拠の重さに対する評価の低さです。
ジグソーパズルの1つのピースがあるとします。このピースは「偶然」というピースです。
このピースの凹凸に“確実に合致するピース”は上下左右の4つだけです。その4つは最初の「1つの偶然ピース」にとっては“必然的なピース”です。
でも、これだけで中心にある「偶然ピース」も「必然」だと断定することはできません。なぜなら1面だけの合致なら幾らでもあり得るからです。轢き逃げ捜査で、落ちていた車の破片の色が白だからといって色の合致する全ての車が犯人ではないのと同じです。
「偶然ピース」の斜左右上と斜め左右下の4カ所が空いています。ここに上下左右のピースの凹凸に合致する4枚のピースをはめ込むと、「偶然ピース」を8枚の「必然ピース」が取り囲む9枚1組の形が完成します。これでようやく、上下左右の4枚のピースが最初の偶然ピースの絶対的ピースであることが証明されます。換言すれば、最低限9つの状況証拠が矛盾せずに1つの形を成せば、中心の偶然が真正性を持ち充分な証拠能力を持つと言うことです。
カレー事件では、警察は相当な苦労と努力を重ねてこのピースを1500枚も集めたということです。証拠材料っぽいものを含めると何十倍もの量になるでしょう。その中からカレー事件の犯人像というパズルに関係するものをふるいにかけ、1500件もの状況証拠を提示したのです。冤罪だ何だかだという前に、気の遠くなるような膨大な作業を積み上げて来た警察官たちの営為所産を、私たちはもっと評価すべきでしょう。裁判官たちも同じです。膨大な提出書類の分析作業を行っています。ジグソーパズルのピースに偽りがないかの検証も行われたはず。さらに三審制でもって可能な限り公正さを保とうとしているわけです。
1500件の状況証拠というのは、最初の9枚の外側にさらに1491枚のピースを齟齬なくはめ込んだというのと同じです。
1500枚のピースを組み立てると1枚の画像が完成しました。ところどころ欠けている箇所がありましたが、けれども完成したパズルの絵柄は誰の目にもはっきりと認識できる鮮明さだったのです。そしてそれは、モナリザではなく林真須美被告の顔だったわけです。画像が鮮明だったからこそ、最高裁まで判決はぶれなかったと解釈できましょう。
今回の判決を冤罪という人は、完成したパズルを見て頬のピースが数枚、爪のピースが数枚欠けているからダメだと言っているに等しい。寝起きですっぴんの妻や恋人を見て他人かと思うことはあっても、きちんと化粧した妻や恋人の化粧の一部が剥がれていたからといって、他人と間違う人などいないでしょう。それと同じです。
1500枚のピースで浮かび上がった林真須美の顔をプロの裁判官がアンジェリーナ・ジョリーと見間違うはずがないではないですか。99%アウトなら完全にアウトです。
投稿: tougarasi | 2009.04.26 00:56
あと。
>インターネット上における名義の在り方
>投稿: 野ぐそ | 2009.04.24 09:20
この流れで言いますけど、私は切込隊長さんに幾つかの評価を出しています。本エントリーのコメント欄では
>で、私のように歯に衣着せない質の人間が嫌になって?投稿止めたら、名無しと空気と自作自演が支配する世論工作体質がまた盛り返すだけなんですわ。前述コメントで言うところの「※1と※3が綱引きとちゃぶ台返しを延々続ける」体質のままになってしまう。
こういう手口を散々使い、また使われた形跡を非常に持っているので、「だから駄目」という評価を下しています。
しかし。その一方では「文才・見識がある」とも評しています。「面白いし人間的にも(そこまで)悪い人じゃない」とも言っています。それはこのコメント欄では書いていないので、切込隊長ブログの過去エントリーを読んでとしか言い様が無い。そういった評価は、きちんと「野ぐそ」の名前で出しているし、「うんこ→私→ハナ毛」…とハンドルネームを変えながらも評価としては変わらないし、そういう発言には一定の一貫性と自己責任を有しています。自己責任があるから一貫してるんです。
そういう部分もある中で、「名無しや捨てネームは駄目」と言っているわけですから。別に、切込隊長名義で自己責任で(自分とこのブログだけじゃなく他所でも)キチンともの申すんであれば、そのこと自体まったく悪いと思って無いです。言うこと言って沿えば認められ沿わねば悪く言われること自体、何にも問題無いでしょう。問題あるなら「なぜ」あるか、言ってから名無しや捨てネームをやればいい。それならそれで筋も通るでしょうに。
でもまあ、それはそれで
>で、私のように歯に衣着せない質の人間が(中略)体質のままになってしまう。
↑こうなるから。どんな達人が手掛けても、そうなるから。だから、駄目だっつってんです。じゃあ名義確定形式が行く末万全かと言われれば、そんなことは無いけれど。どのみち駄目だけど。でも、既に駄目と分かって敢えてやるな、と言いたいんです。
2ちゃんねるがどうしてアングラ扱いから抜け出せないのか。その状態を維持し続けたまま肥大化しても、主催者が大儲けしても「駄目」なのか、そこから学ぶことが無いとしか言いようが無い。
だから、言う。それだけのことです。
投稿: 野ぐそ | 2009.04.26 13:31
判決の理由の中に、「被告には反省の色が無く、情状酌量の余地が無い」ってのがあったと思うのですが、そこに疑問を感じました。認めてるのに反省もしないだったらわかるのですが、本人は罪状を否認しているのに、どうして反省できるのか。裁判官ともあろう人が、自分の言っていることに矛盾を感じないのかなと思いました。反省していないことは、死刑の判決材料にはなれないのではないでしょうか。この一文がなくても、死刑の判決は出そうと思えば出せただろうに、わざわざ加えてしまったのは、死刑判決を出すに際して、何らかの大義名分がほしかったんじゃないかと考えてしまいます。
投稿: かめこ | 2009.04.29 18:27
「野ぐそ」さんに回答していただけなくても仕方ないし、また、「野ぐそ」さんは2ちゃんねるの運営に何も責任がないし、2ちゃんねるのありかたに責任を感じる必要も皆無なのだけれど・・・。
でも、現状までのあり方に怒りを感じるのなら、「野ぐそ」さん。どうやったら、2ちゃんねるは前向きで社会にとって有益なメディアになれると思いますか。どういう軌道修正をしたら「駄目」な劣等生の問題児などではなく、正当で正統な言論機関としての認証をどれほどかでも得られるようになると思いますか。2ちゃんねるがこのままどうにもならないままだとしたら、どういう自由なメディアが2チャンネルに取って代わるべきだと思いますか。
この点の建設的な解答を、一応は用意しておくことが、「野ぐそ」さんが切込隊長より次元の高い言論を展開しているということの根拠を担保するのでは?
投稿: enneagram | 2009.05.06 17:14