後人類的知性についての与太話
与太話でも。先日、3日の日経コラム「春秋」(参照)にこんな話があった。もちろん、コラムだし些細な話である。春秋の筆法という趣向ではない。
ベランダに放置してあるプランターに、勝手に生えてきたタンポポやスミレが早くも花をつけている。狭い人為的な空間でも、みごとに生態学的な地位を築く草花のたくましさに驚く。心配なのは、彼らも我ら人類も、生存の基礎を全面的に委ねている地球の気候条件が、今大変動しているという科学者の指摘だ。
春秋子、あまり科学的なものの考えをなさらないのであろうが、科学少年の慣れて果てでかつ無粋なダーウィニストである私はこんなことを思った。「生存の基礎を全面的に委ねている地球の気候条件」とかいうけれど、別段温暖化がどんどん進んで人類が滅んでも、生命が途絶するわけではないよ、心配すんなよ、と。
氷河期だってなんどもあったんだし、そのおかげでむしろチャンスが回ってきたのが人間種の祖先だった。
もともと地球上の酸素は生物が、牛のゲップみたいに吐き出したものだし(いやそうではないけどね)、その総量もそれほど多いわけでもない。人間種が炭素濃度を変化させることで自身の種の生存環境を壊滅しても他種のチャンスが回ってくるだけのことだ。というか、人間種は恐竜なんかと同じように種としてはすでに生存に失敗してしまったのかもしれない。この手の生存はある種のインフレーション後に一気に瓦解的に滅亡してしまうものではないだろうか。ありふれた種の滅亡パターンの構成をそう逸脱してないようにも思える。
人間種が滅んだあと、何か別の種が、人間に近いようなあるいは人間以上の知性を獲得し、そしてそれが人間のように自らを滅ぼさないような知性にまで到達したなら、人間種のことは地球にとって、「ま、あれはなかったことにしよう、ノアよ」みたいに、忘れ去れていいような挿話に過ぎないことになるのだろう。ただ、その新知性生命が、人間種なり、あるいは人間種の知性と関わりを持つかどうかわからない。
とか私は考えていた。
私の考えは変だろうか?
べたなダーウィニズムからの逸脱はないのではないか? どうなんだろ。
なんか変な感じがするのは、人間種の知性が撲滅したあとでも、何億年くらい後に、また生命による知性の到達の可能性があると想定するあたりが、どうよ?ってことだろうか。
このあたり、知的種という概念にも奇妙なものがないわけではない。人間種は、自身の種以下の知性の想定ができても、人間種を越える知性については、その部分的な知性の量的な延長としてしか想像できず、その質的な延長の種みたいなものはなかなか想像できない。
世の中には天才みたいな人がいるし、そういう人の知性のある種の量的な拡張ではなく、質的な拡張みたいなものを想定してみると、異質な上位知性がまったくありえないわけではない。仏陀のような知性がごく普通に偏在するような知的種というのが、想定できないわけではないが、仏陀に限っていえば、それがリプロダクションをしたのは出家前だし、出家後の仏陀となるとおセックスはしないだろうから、どうやって生命のリプロダクションと進化を遂げるかがわからない。そのくらいの知的種なら、おセックス以外のリプロダクションを獲得しているのだろうか。そのあたり、おお、なんて与太話なんだっていうことになる。
遺伝子(ジーン)に対して、意味を伝えるミームといった与太話もあるが、人類が滅んだあとグーグルのシステムだけが、アレキサンドリアの図書館のようにしばらく生き残っても、それが生命としての独自の生存をするかはよくわからない。しないんじゃないだろうか。どのような知性があっても、かなり低次な生命のリプロダクション・システムに従属するというのは、生命そのものの制約なのではないだろうか。
というところで、すでに自分のなかで人類は終了している感がなきにしもあらずだが、そもそも地球の歴史は46億年だったか。地球誕生から生命誕生までは6億年くらいか。意外に早いっていうか、本当にそれは地球で誕生した生命なのかよくわからないが、案外生命というのはそのくらいの速度で自然に発生するものかもしれない。
でも、現在の地球生命体の直接的な祖先である後カンブリア紀型生物の出現はこの5億年くらいなので、30億年くらいの奇妙な停滞を必要とするのかもしれない。
いずれにせよ、後カンブリア紀の生命の進化速度は速い。人類種が滅亡しても、後カンブリア紀のスタートラインに戻るわけではないから、数億年で人類知性くらいの獲得は楽勝なのではないか。
というあたりで、地球歴史と宇宙歴史の時間差も気になる。全宇宙史は137億年らしいので、その間、地球様の生命環境は多様にあるだろうから、人間くらいの知的種の達成はかなり楽勝で宇宙のあっちこっちに存在していると考えるのが妥当だろう。が、先の人間知性を越える知性が想定しづらいように、実際には、かなりの知的種は、自滅しているのだろう。宇宙空間の広さと自滅の速度を考えると、おそらく知的種と人間種の遭遇というのは、ほぼゼロなのだろう。でも、ダイソンの永遠知性(Dyson's eternal intelligence)みたいなことも考えられるか。
とか思って、ネットをちらと見ていたら、”進化:ダーウィンを継ぐもの」対談:ドーキンス vs レニエ”(参照)という記事があって、ちょっと微笑ましかった。ドーキンスはその可能性に興奮していたわけだな。
レニエ:
最近私がスリルを感じたことが一つあります。それは,私をちょうどこのところ高めてくれているある種の畏怖を与えてくれたんですが,火星の生命の証拠です。私は,この生命のように見えるものの化学が,如何に私たち自身のと似ているかに衝撃を受けました。それに,私は,多くの科学コミュニティの飽きて関心の無い態度にも衝撃を受けました。これは,とてつもなく大きなことのように思えるんですけれど。
ドーキンス:
もし本当なら,恐ろしいほど大きなことだよね。それは,一つの惑星で生命が誕生する確率についての私たちの推定を完全に変えてしまうからね。これまで生命の起源は普通にはありそうもないことで,この種のことは銀河にたった一度しか起こっていないだろうと私たちは思ってきたから。もし突然,私たちの太陽系で生命の2つの別々の進化があるってことになったら,生命は全宇宙に単純に満ち溢れていることがわかるわけだ。これが,それが大きなことだっていう理由のひとつ。もう一つの理由は,全然別のことで,進化の一般的な現象について考えるときに,私たちはサンプルを一つしかもっていないよね。たった一つのサンプルから,全部の生命と進化の理論を位置づけているわけだ。もしこのサンプルが二つに増えたら,たとえ二つ目が2,3の微小な化石だとしても,一般現象としての(たんなる地方教区の,地球上の現象としてではない)生命について,新しい情報とアイディアの莫大な注入を手にすることになるだろう。
レニエ:
そうすると,私たちを理解してくれる他の生命とのコンタクトについて考えるのは合理的でなくもないということになりますね。
ドーキンス:
だが,問題は,その証拠によって興奮しすぎてしまうことだ。多くの人はまだ懐疑的だよ。本当であって欲しいとは思うけれど,納得はしていないと言わざるを得ないね。
懐疑的とかいうけど口の滑り具合からして、ドーキンスもけっこう与太なことを考えていたようだ。
神は妄想である 宗教との決別 |
そのあたりは、どうなのだろうか。というのは、知的種というのは宇宙の必然だとするなら、それ自体がなんだかインテリジェント・デザイン臭い感じはしないではない。もちろん、インテリジェント・デザインみたいに原点にデザインという起点を置くのではなく、知性を形成させる場としての宇宙といった考えになる。
ベルクソンはそんな場としての宇宙を考えていたようだ。ド・シャルダンはというと、彼の想定するポイント・オメガの場合は、そうした自滅する知的種を含んでいたのか、人類種の知性の到達に描かれていたのか、どちらかといえば後者であるようには思う。
そう考えてみると、ベルクソンとかはけっこう索漠とした宇宙の冷酷さに震撼しているという感じであろうか。星も無き夜、聖書的漆黒!
| 固定リンク
「雑記」カテゴリの記事
- ただ恋があるだけかもしれない(2018.07.30)
- 死刑をなくすということ(2018.07.08)
- 『ごんぎつね』が嫌い(2018.07.03)
- あまのじゃく(2018.03.22)
- プルーム・テックを吸ってみた その5(2018.02.11)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
最近S.ホーキングの5、6年前に出版された最新宇宙論を読んだのだが、以前と異なり、かなり積極的に『人間原理』を取り入れている。 プランク時間前の虚時間の揺らいだ量子的“無”が、不確定性原理(トンネル効果)によりプランクサイズの“有”の宇宙となった、というのが宇宙開闢のイメージと解釈したが、物理学がここまで人間原理を採用してよいなら、人間の意識が創造した“神”が、「宇宙よ、あれ」と命じたから、プランクの宇宙が生まれ、今のように在る、と言っても許されるような気がして、開闢の瞬間を記述する方程式が即ち神の言葉であるということで、唯物論と神は和やかに共存出来るのではないか、と出来の悪い文系脳で考えた。
投稿: rice_shower | 2008.02.10 07:58
シマック「都市」っすか
投稿: saru | 2008.02.13 15:37