罪のない者と罪を犯したことのない者
ブログだったか他の記事だったかごく最近のことだが、ネットを眺めていて、このところ何回か、「あなたたちの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」というヨハネ八章の聖句を見かけた。いや、正確に言うと「罪を犯したことのない者が」という表現だったと思う。そのあたりで、あれ?という感じがした。この聖句の引用のされかたの文脈もあれれ?という感じがしたが、それは以前からそうでもあるのだが。
「罪を犯したことのない者が」としている日本語の聖書があるのだろうかと疑問に思った。福音派の新改訳だろうか。自分ではカトリックの響きがするなと思って、ちとグーグル先生に聞いてみると新共同訳のようでもある。カトリック教義との妥協的な表現なのか、あるいは日本語だと「罪」という言葉につられて「犯して」という成語になっただけだろうか。手元にギリシア語の聖書がないのだがここでの「罪」αμαρτιαだろうか。ヨハネ書なのでそうなのかもしれない。
共観福音書から外れたヨハネ書の場合、罪の概念は後のカトリック的な原罪的な響きを持つと言ってもいいかもしれない。が、「罪のない者」というこなれない日本語で聖書が示そうとしたもののと、「罪を犯したことのない者」という日本語的な表現と同じと見ていいのか。まあ、普通はどうでもいい類のことであろう。ただ、私は奇妙に考えさせられた。
たしかヨハネ書のこのくだりは元来ルカ書にあったという説がなんとなく記憶にある。記憶違いかもしれないが、このあたりのエピソードはルカ的な響きがあり、よりコイネ・ギリシアというかヘレニズム文化圏の宗教性を私は感じる。この微妙な(ある意味でどうでもいいのかもしれない)差異は主の祈りにおけるルカ書とマタイ書の差異に対応していて、ルカ書では罪となっているがマタイ書では負債となっている。マタイ的な原始教団ではルカ的な「罪」の概念が存在していなかったことを示している。であれば、イエス時代にこの負債=罪の概念が「石を投げつける」=石打ち刑に対応するわけもない。
では、イエスのこのエピソードの罪はなにを意味しているのか。と、これは考えるまでもなく現在でもイスラム法で行われている姦通罪の石打ち刑にほかならない。ま、ほかならないとまでは言えない微妙なものがあるのだが、概ねそういうものだ。ウィッキ先生の「刑罰の一覧」(参照)にはこうある。「高エネルギーによって人体を破壊する方法」に分類されているあたりにネタなのかというユーモアが漂う。
石打ち刑(いしうち けい)
下半身を地中に埋めるなどして身動きを封じた受刑者に対し、死亡するまで石を投げつける刑。現在でもイスラム法による処刑方法の一つになっている。
ラジャム(rajam)というので私もうっかり写真を見たことがあり、見るんじゃなかったブラクラぁという代物であるのでリンクとかしない。
「石打ち刑」(参照)の項も面白い。
石打ち(いしうち)とは、古代から伝わる処刑方法の一つである。石撃ちと表記することもある。死罪に値する罪人に対して大勢の者が石を投げつけるというもので、古代においては一般的な処刑方法であったが、残酷であるとして、現在ではほとんど行われなくなった。しかし、いまだにこの処刑方法を採用している地域も存在し、人権擁護団体などによる抗議の対象ともなっている。
突っ込みどころ満載とまでは言わない。筆記者がよくわかってないのだろうなという感じはする。さらに。
聖書に見られる例
石打ちに値する大罪としてレビ記 20章に挙げられているのは、おおむね以下の通りである。
・モレクに自分の子供を捧げる者
・霊媒や予言を行う者、また、彼らに相談する者
・自分の父母の上に災いを呼び求める者
・姦淫、同性愛、獣姦など、倒錯した性行為を行う者
言うまでもなく聖書の世界もイスラム法もいわゆる旧約聖書の上に乗っかっているので、こうした石打ち刑が出てくる。英語では、stoningと単純に「石」の動詞形というのが英語圏での馴染みの深さを物語っている。
なぜ石打ち刑なのか?
そのあたりがこのエントリのネタなのだが、先の聖句を日本人の多くは義憤に駆られたバッシングのように受け止めているのではないかなと思うのだが、石打ち刑の背景にある思想はそうではない。そのあたりは、申命記を読むとわかる(というか申命記なんて読まれないのだろう)。申命記(21)より。
もし、わがままで、手に負えない子があって、父の言葉にも、母の言葉にも従わず、父母がこれを懲らしてもきかない時は、その父母はこれを捕えて、その町の門に行き、町の長老たちの前に出し、町の長老たちに言わなければならない、『わたしたちのこの子はわがままで、手に負えません。わたしたちの言葉に従わず、身持ちが悪く、大酒飲みです』。そのとき、町の人は皆、彼を石で撃ち殺し、あなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば、イスラエルは皆聞いて恐れるであろう。
ポイントは「町の人は皆、彼を石で撃ち殺し」ということで、町の皆がそうすることが責務となっているということ。その死と流された血の責務を皆で負うということだ。死刑の執行者を他人に委ねるのではなく、自分たちが皆負うというのが重要な点であり、これが陪審制度の思想的な背景にもなっている(はず)。
そしてそれを行うことで共同体の悪を除くということになっており、恐らくヨハネ書の「罪なき」の罪はこの悪の概念に近いのだろう(「罪犯す」は罰に対応するから)。
ちなみに、マタイ書における悪の概念は……とやっていくのは控える。それどころか、もうこのエントリも終わりにしよう。
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コメント
民族系のジョークがありましたね。
アメリカ人:「ナイスジョーク」とどっとわいたあと、何事も無く投げ始める
日本人:それもそうだな、とやめかけるが、周りが投げてるので投げ始める
イタリア人:うまいこと言って女心を射止めようとしたイエスにむかって投げ始める
ドイツ人:一瞬手を止めるが、やはり規則だから、と思い返して再び投げ始める
本当は、オチが日本人だったんですけど、ちょっと順番を変えるとドイツ人がオチみたいに見えてきますね。
投稿: -w- | 2006.02.12 22:16
で、なんでしょう?
投稿: ah | 2006.02.13 13:27
いつも思うのですが、「聖句」という表現を使うあたりfinalventさんは洗礼を受けているかどうかはともかく、正統なクリスチャンなんだなあと思います。「何をもって正統というか」とツッコミが入りそうですが、最低限、聖書に敬意や信仰心を持っていそうにお見受けするところです。すごいなあ。
確かに聖書は、新共同訳など一般的な日本語ソースのみで普通に読むと、現代日本人的感覚で受け止める結果にどうしてもなり、とんでもなく原書からズレのある解釈をしがちだなあと思います。
このエピソードに関しても典型的で、まず「罪」の概念からして説明するのが相当複雑でマンドクセーですよね。特に新約の場合、「罪」に限りませんが、原文はユダヤ的「罪」とコイネーの流れをくむ「罪」の概念が入り混じってたり重層的に融合しちゃっていたり文中で戦ってたりしているような感触を受けますが、ここからはあくまで解釈の問題ですし、各福音書教団のバックグラウンドと編纂者の意図と場合によっては後期改訂者の意図まではかった上で読み解かないといけなかったりして。そこからイエス当人のエッセンスを抽出することなんて、実際は不可能に近いのかもしれませんよね(←先の「すごいなあ」はここにかかります笑)。
「石打ち」に話題を絞ってみると、福音書は置いておいて、現代イスラム→(色々な論理的飛躍)→テロに至る価値観の一端が伺えるような気がしたりもします。かなり乱暴ですが。
所詮人が人を裁くことは貸し借りの問題(面子を保つこととかも含め)か、リンチか、復讐かのどれかでしかなく、現行法もいわゆる定義された「社会正義」に対してそれぞれ見合う負債を与えているわけですしね。ま、そうして外から人工的に「正義」の概念を与えてやらないと、人間社会なんぞ統率も取れないので、現行法が各時代ごとにニーズというか価値観に沿っていれば、それでまあいいんでしょうけど。
話題の内容的に、ちょっと律儀に反応してみました笑。長文失礼いたしました。
投稿: deco | 2006.02.13 14:13
なるほど、古代ユダヤのコスモロジーにおいて、姦通罪に対する石打ちとは、共同体全体の責任と連帯においてなされる浄化儀礼ないし贖罪儀礼としての宗教的な意味合いを持っていたものであるというご指摘ですね。
ゆえに、例えばネットにおける祭りなどに見られるある種の集団的義憤に立脚した精神的陵辱行為を批判する文脈において聖書の該当箇所を引用するのは不適切であるということでしょうか?自分も、今月12日にそうした視点に基づくエントリーを書きましたので、甚だ興味深い論点であります。
上のコメントの方もおっしゃっていましたが、実際の史的イエスがどういうコンテキストの中でこの聖句を口にしたかということを抽出するのは不可能です。そもそも、このエピソード自体があとから挿入されたものだけに、創作の疑いが濃厚だといわれるのもよく言われているところです。
そうなってくると、ヨハネ書のコンテキストに内在して考えた場合、福音史家がイエスに否定させたかった「罪」のエッセンスとはなんであったのかという問題を内在的に考察する必要が出てくるのではないかと思います。
私自身といたしましては、ヨハネ書のコンテキストに内在して考えるならば、イエスが否定したのは「大きな犯罪は自然を害い、そのため地球全体が報復を叫ぶ。悪は自然の調和を見出し、罰のみがその調和を回復することができる。不正を蒙った集団が罪人を罰するのは道徳的秩序に対する義務である。」(ヨサル・ロガト)といった形の浄化儀礼の対象としての「罪」よりも、神ならぬ人の傲慢(ヒューブリス)に基づいて人を裁こうとするような正義感だったのではないかと思います。
finalventさんはどのように考えられますか?
投稿: 寝太郎 | 2006.02.14 20:26
寝太郎さん、こんにちは。
問題意識の根幹に恐らく大きな差異があるのではないかという思いがあり、その分、うまく回答にならないかもしれないことを恐れます。しかし、あるいはそれゆえに簡単に答えてみたいと思います。
基本的に聖句がどのような文化の文脈で読まれてもそれ自体の価値性の審級を問いうるような絶対性は存在しないのではないかと思います。ただ、そこには差異のみがあるという意味です。その限定では、ヨサル・ロガトの指摘のようなある種、ロシア正教的とも言える絶対性を前提において棄却してしまうものです。しかし、そこが問われないわけはないでしょうし、寝太郎の疑問はそこに根を持っていることでしょう。
文化差異において審級性が無化されるとしても、コンテクストの考古学といったものは可能であろうし、今回のエントリのようにおちゃらけたフォームであれ、その根幹にはメソッドの厳格性が要求されます。つまり、メソッドがフレームを構成し、その構成=文脈のなかで聖句の意味を救済しようとするものです。
もしこう言うことが可能なら、そのようにして救済された聖句の意味、それ自体が要求するコスモロジーと人間観において神学の再構成が可能でしょう。そのなかで、ヒュブリスが定義しうるのかどうか。
雑駁に言うのですが、神学的は恐らくイエスの啓示がヒュブリスの自然的な意味を覆すだろうと思いますし、そのことこそまさにヨハネが伝えたかったことではないでしょうか。
投稿: finalvent | 2006.02.14 20:39
関連してエントリを書き、トラックバックしたのでしたが、通らなかったようです。
リンクを書いておきます。
Aquarian's Memorandum
「罪なき者は、石をなげうて」
http://aquarian.cocolog-nifty.com/masaqua/2006/02/post_3238.html#more
投稿: アク | 2006.02.15 09:38
どうもこんにちは、はじめてではないかも知れませんがはじめまして。なかなか興味深く読めたテキストでした。
これほどまで深くはないんですが、私の日記でもこのテキストに言及したものがありますので、ご参考までに。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20040522#p1
「とんち救世主」としてのキリスト、という話であります。
投稿: 愛・蔵太 | 2006.02.18 10:36
旧約聖書に「異なる種類の素材をあわせた布を着るものは石打刑に処されねばならない」という記述があるそうな。木綿化繊混合なんてもってのほかw
投稿: き | 2006.07.23 20:45