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極東ブログでとりあげられた

 
「極東ブログ」で『転生』の書評が出たと担当者から連絡があった。極東ブログというのは、finalvent さんというブロガーが国際問題や社会問題を取り上げてじっくり論じる論壇型ブログとして、ネットの世界ではかなり有名らしい。そういう世論形成に影響力のあるブログの書き手をアルファブロガーというのだそうだ。


寡聞にして、そういう言葉があることも今回初めて知ったのだが、なるほど読んでみて感心。じつにするどく面白い。初めのほうなんて、出版社にとっては、イタイところをつかれたという感じだろうけれど、訳者としては、そう、そーなんですよ、と思わずうなずきながら読んでしまった。


つまり、いまの時代に、本書のようなテーマにかかわったものを出そうとすると、好き嫌いはべつとしして、セールス上、どうしてもスピリチュアルとか、そういう文脈にのせざるをえないし、読者の側もひょっとしたら、それを期待するのかもしれない。けれども、前にも書いたように、この本は、いわゆる「転生」という不思議現象を扱ったスピリチュアルものと思って読むと裏切られる。

 
finalvent 氏も書いているように、オンム・セティの生涯は、相当ラディカルではあるものの、ひとりの女性の個性化の物語として読むことも可能だ。しかも、それは「転生を信じなくても十分に理解できるもの」である。この点において、彼女のエキセントリックな生き方は、ある種の普遍性を帯びる。それは古代エジプトの宗教の普遍性とかそういうことではなく、個人的な信仰や信念をもつうえでオンム・セティが保っていた倫理観の普遍性である。
 

ぼくが感心するのは、彼女の活動が、いまのスピリチュアルブームにありがちな、成功哲学や現世利益といった方向にむかわなかったことだ。それは、ひょっとしたらfinalvent 氏が指摘するように、彼女の人生が「死をわたる罪と許しの物語」という側面を帯びていたせいなのかもしれない。本文中で、心理学者のマイケル・グルーバーがふれていることだが、それは彼女の生涯がいわば過去におかした罪の贖いのプロセスとして位置づけられることと関係している。


ややこしくなるのでこのくらいにするが、ひとつ強調しておきたいのは、オンム・セティがアビドスで有名になり、BBCなどのメディアの取材を受けていた時期は、ちょうど1970年代後半から80年代初めにかけてという、いわゆるニューエイジ運動が盛んな頃だった点だ。むろんエジプトの田舎の村で、テレビもなく、エジプト学の専門書以外は、旅行者が置いていったペーパーバックくらいしか読むものがなかった状況では、彼女がそうした風潮をリアルに感じていたとは考えにくい。

 
しかし、その頃、アビドスのオンム・セティのもとを、多くのオカルト的人物たちが訪れたのも事実である。たとえば、催眠状態の中で膨大なお告げを聞いて、過去や未来のさまざまなヴィジョンを口述したエドガー・ケイシーというアメリカの予言者がいるが、このエドガー・ケイシーの息子はなんどもオンム・セティのもとを訪れている。
 

エドガー・ケイシーは古代エジプトについておびただしい予言を残している。その科学的証明のために息子は私財をつぎ込んでエジプトにおける考古学調査のスポンサーにもなってきた。オンム・セティと彼がなにを話したのかはわからないが、少なくともケイシー側にとってはオンム・セティは、父親の予言を証明するための重要な証人だったはずだ。


また、アイルランドに本部を置くイシス友邦団というオカルト団体がある。ここはいまなお古代エジプトの宗教を信じる者たち(その多くは白人らしいが)からなり、そこの創設者のオリビア・ロバートソンという女性もオンム・セティに会いに行っている。オリビアもかなり変わった人で、アイルランドの古い城で、いまだに古代エジプトの神官のようなかっこうをして、古代めいた儀式を行って暮らしているらしい。1917年生まれでまだ健在だというから、もう90歳を越えている。オリビアはオンム・セティを自分たちの教団に誘った。オリビアによると、オンム・セティは死ぬ数週間前に会員になったということである。


だが重要なことは、多くのスピリチュアル系の人たちがオンム・セティを自分たちの文脈にとりこもうとしたものの、彼女自身は、その文脈からつねにはみだしていたということだ。おそらくオンム・セティはオリビアやケイシーの息子の活動に一定の理解は示していたのだろう。けれども最後まで彼女は教祖にも、予言者にも、オカルティストにもならず、なみはずれた知識と経験と感受性をもったミーハーな古代エジプト・ファンのまま、その生涯を終えた。


オンム・セティはアビドスのセティ一世神殿について300ページ近い解説書(ABYDOS: Holy City Of Ancient Egypt)を書いている。その壁画の解説をつらぬいているのは、預言めいた神秘的解釈でもなければ、オカルト的なシンボル解釈でもない。むしろそれは吉田秀和を思わせるような、繊細で、感覚的な芸術批評である。感情的表出の乏しいとされる古代エジプトのレリーフの中に、オンム・セティはメランコリーや悲しみ、喜びを聴きとり、そこに控えめに託された思いを、ていねいにすくいあげていく。オンム・セティの転生経験を、そうした、こまやかな感受性の延長線上に位置づけたとしても、なんら問題ないようにさえ思う。


ところで、話は変わるが、そのあと極東ブログのほかの項目も読んでみたら、面白くてバックナンバーまでずんずん読んでしまった。手作り豆腐から、ダルフールの話まで取り上げられている。それも表面をぺろっとなめる程度のものではなく、どれもガリガリとかみくだいて、のみこんで、消化したうえで文章にしているから読み応えがある。こういうものをこれだけの頻度で書き続けられるというのはすごいなあ。ブログといいながらときに季刊と化している身としては感心しきりだが、そんなことではなく、ひとつ「あっ」と思ったのは、何年か前に図書館でなんとなく借りて読んだ本が書評に取り上げられていたことだった。
 

それは『高学歴男性におくる弱腰矯正読本−−男の解放と変性意識』(須原一秀著)という本だ。ネーミングのセンスを疑う奇怪なタイトルである。それでも、わが身をふりかえれば、実際、大学を出ていて、しかも弱腰な性格なので、つい借りてしまったのかもしれない。


で、これが、finalvent 氏 も書いているように、かなり奇妙な本だった。著者は大学の哲学の先生。内容は、よくあるポジティブ・シンキング系、あるいは説教系の生き方応援マニュアルではまったくなく、日常生活にふと訪れる変性意識体験というものについて、学生たちから経験談を集めて、その本質を考察するというようなものだったと思う。本が手元にないし、もう何年も前に読んだものなので、記憶が曖昧なのだが、そこに集められた変性意識の経験談が微妙なものばかりだったことが面白かった。


変性意識体験というと、宗教的な改心とか、啓示といった、スケールの大きなものが思い浮かぶが、そういうものはほとんど出てこない。むしろ集められているのは、外を見ていると風景がぶよぶよとした質感を帯びてきたとか、絶壁に立っていて、このまま死んでもいいと思ったとか、日常をちらりと過ぎる微妙な感性の揺らぎばかりなのである。それは子供時代、ふしたきっかけで訪れる不安感や恍惚感などに近いのかもしれない。
 

それがどうして弱腰を矯正することにつながるのか。著者によると、弱腰とは、自己保存本能の過剰な高まりということらしい。これが世界から意味を感じる経験を奪い去る。一方、先ほどのような微妙な変性意識状態にあっては、こうした自己保存本能が低下するとのこと。このとき、ひとは自己意識から解放され、日常の枠の外側に広がる意味の世界にふれることができるのだという。この点からすると、いわゆる癒しや救いというものは、かえって自己保存本能を高めてしまうので、用心しなくてはならない、といったような話だった。

 
こうして思い出してみると、かなり奇妙な主張にも聞こえるのだが、思考ではなく感覚の揺らぎを通してエゴの枠組みを考えるという視点が面白かった。実際のところ、それを知ったからといって、すぐ弱腰が矯正できるというものでもない。それよりも、こうした微妙な感覚に注目する著者に興味が湧いたものだ。それから何年もたって思いがけず、この奇怪なタイトルの本が取り上げられているのを見てなつかしく思ったのだが、それ以上に驚いたのは、この本を書いた須原さんという方が一昨年に自死されていたことだった。しかも、自死にあたって、その心境をつづった『自死という生き方―覚悟して逝った哲学者』という本が最近出たらしい。


その本は読んでいないが、自己保存本能の低下をもたらす体験を提唱されていた方が、結果的とはいえ、自己保存本能の放棄ともいえる自死というかたちで世を去ったことに、陳腐ないいかただけど因縁めいたものを覚えた。

 

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コメント

「FAR EAST ブログ」の文章はバランスがとれていて深く、なかなかのものですね。
特に最後の「・・・死を渡る罪と許しの物語という枠組みもある。」というのはいいですね。含みの深い文章でブログが閉められていますね。
こういう人もいるのだなあ。

>小松田堂鐘さま

極東ブログ、面白いですね。
2月15日付けの記事では、同じくジョナサン・コットの最新刊『奪われた記憶』が取り上げられていました。
深く読み込まれたいい書評でした。出版社の営業トークと内容とのギャップがここでも指摘されています。

話変わりますが、チャド、シビアな状況がつづいているようですね。ほとんどニュースになっていませんが。

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