ハンニバルは、地中海の都市国家カルタゴの植民地であるスペインの総督で、第2次ポエニ戦争で共和政ローマと戦った将軍です。世界史上屈指の用兵家であり、稀代の天才戦術家と言っていいでしょう。
弱冠30才という年齢で数万の軍隊を指揮し、イタリア半島に侵入、ローマの百戦錬磨の武将をことごとく戦場で倒しています。特に、自軍の2倍のローマ軍を包囲、壊滅させたカンネーの会戦は、2千年後の現代の陸軍の仕官学校で必ず学ぶほどの、用兵の最高傑作です。このカンネーの会戦での死者数は7万とも8万とも言われ、ローマがこれほどの被害を被ったのは、後にも先にも唯一です。
当時、地中海の制海権をローマに握られていたため、スペインから陸路イタリアに侵入する、という無謀な計画を立て、それを実現させてしまいました。当然、アルプス山脈を越えなければ不可能で、それを5万人の軍隊と戦象部隊をも従え実現させています。ただし、半数の将兵が犠牲になったそうです。
ハンニバルは、ローマ侵入後、自ら指揮した戦闘ならば常勝を誇り、ローマの政治・軍事の最高官職である執政官、および同等の資格を持つ軍事司令官を、合わせて十数名、戦場で殺害しています。強国ローマをこれほど苦しめた人物は他にはいません。一説には、ハンニバル1人のために、ローマは、元老院議員など指導者層の25%を失ったと言われます。
常勝を誇ったハンニバルですが、本国が無能なため、ほとんど支援を得られず、また、副将とすべき部下にも恵まれず、次第に膠着状態に陥ります。それでも、イタリア半島南部を15年余り占領し続けています。
その間にローマでは、ハンニバルよりさらに若い名将、スキピオが登場し、スペインを攻略、さらにはカルタゴ本国にも侵攻したため、カルタゴは慌ててハンニバルを帰国させ、スキピオと対決させます。
ハンニバルVSスキピオ、という世界史に冠絶する2人の名将の対決となったザマの会戦は、ハンニバルが、己の得意とする包囲・殲滅戦法をスキピオに駆使され完敗する、という結果に終わりました。無敵を誇った用兵の天才が、最後の最後で自分よりも若年の将軍に完膚なきまでに破れる・・・非常にドラマチックですね。
研究者の間では、スキピオはハンニバルの弟子である、という見方も多いです。スキピオは、幾つかの戦場でハンニバルの用兵の天才ぶりを体験しています。そこで、彼の偉大さと恐ろしさを身をもって理解し、そこから、彼と同じ戦法を身につけたのでしょう。つまり、ハンニバルは、知らず知らずのうちに、最良の弟子を生み出していたのです。なんと敵側に。
ハンニバルが戦術家としてこれほど評価される理由として、その用兵術だけではなく、部下に対する指導力も挙げられます。カルタゴの軍隊は伝統的に、金で雇う傭兵が主体です。つまり、国家、司令官、に対する忠誠心が薄いのです。そのため、脱走、離反など日常茶飯事でした。しかし、ハンニバル配下の軍団では、彼を裏切って脱走した者は皆無です。戦争の後半には、補給を絶たれ、膠着状態が続いたにもかかわらず。
この理由として、ハンニバルの人間性が挙げられます。彼は、他人に厳しい人物であり、それ以上に己に厳しかったそうです。記録を見ると、彼は、一兵卒と同じ食事をし、暑さ、寒さにも無言で耐え、寝る時間を惜しんで司令官の激務に取り組みました。ようやく僅かな休息の時間が出来ると、木陰にマントを敷き、その上で眠ったそうです。
作家の塩野七生は、彼の、そういう態度に対し、兵士たちが畏敬の念を抱き、さらには、哀れに思ったのではないか、と評します。用兵の大天才が、それでも困難な状況から脱し得ず、にもかかわらず、一切の泣き言も言わずに黙々と激務を遂行する姿に、自分達兵士が見捨てては、あまりに彼が可哀想だと。
軍神アレクサンドロスや、大英雄カエサルでさえ、軍団のストライキに悩まされています。しかし、ハンニバルは、寄せ集めの傭兵軍団を、完璧に支配下に置き、士気を維持し続けたのです。
ハンニバルは、人類史上、最も優れた用兵家のうちの1人でしょう。
ただし、戦場で無敵を誇りながら、ローマと同盟国との連合を瓦解させる戦略を実現しえなかった、という過ちを犯している事を考えると、戦場の指揮官たる戦術家としてなら人類史上1、2を争う天才でも、戦争の総司令官たる戦術家としては、スキピオをはじめとする名将たちに若干ながらも劣る、と評価せざるをえません。
政治家、行政官としても、それなりに優秀です。敗戦後のカルタゴを見事に経済復興させています。が、彼の性格からか、かなり武断的改革を行ったようで、反ハンニバル派を国内に発生させています。
復興成った後、反対派に追われ国外逃亡し、オリエント諸国に客将として雇われながらも活躍の場を与えられず、最後はローマの追跡の手が迫ったため、毒により自死しています。