小保方晴子さんの「あの日」を読んだ。誤解して欲しくないのだが、僕が、この小保方晴子さんのセンセーショナルな手記を手に取ったのは好奇心からではない。ゲスい野次馬根性からである。告白しよう。小保方晴子さんの名前をググることは毎朝の僕のルーティーンであった。
なぜ、彼女がこれほど僕の心を惹きつけ続けるのか、その理由を知りたい。それがこの手記を手に取った理由である。今、読み終えて放心しているところである。内容の詳細については各々読んでいただかなくてもいいとして、これだけは言っておく。衝撃の手記という宣伝文句は本当であった。事件については報道でなされている以上のいわば秘密の暴露はまったくないし、著者が関与したとされる疑惑は華麗にスルーされているので、なぜSTAPの騒動が起こったのかまったくわからないからだ。一方、宴席で泥酔しているうちにアメリカへの留学が決まったワンダーな経緯や、執拗に繰り返される共同研究者の若山氏が嫌なヤツであるかのような描写などどうでもいいところへの注力は白眉と言えるだろう。
「なぜ研究者になろうとしたのか」から「研究者としての道を絶たれるまで」を時系列に沿って構成されている本書だが、STAPの発表前後から「死にたい」「涙があふれた」というメンヘラーな描写が増えていく。同時に、淡々とした文章の中に(文章は上手いです)突然メルヘンチックな描写が挿入され、この人大丈夫なのかと不安を煽られる。
たとえば、自分の研究を指した「乾燥した大地の上に、無限の石の塔がある。空気は暑く乾燥していて、空は青く高い。あるところには丸い石の土台に細長い石が乗り不安定に空高くそびえたっている。小石がいびつな形で寄り集まって小山になっているものもある。しっかりした四角いレンガが低く積み重なったものもある。いびつながらも固い石が高く積み重なっているものもある。先端が風化して土台だけを残し、砂の残骸になっているものもたくさん見える。崩れた石の塔もたくさん見える。この世界を思い浮かべるたび、科学の女神の神殿を永遠に造り続ける作業のように思えた。(136頁)」という表現や共同研究者が亡くなったときの「笹井先生がお隠れになった。8月5日の朝だった。金星が消えた。私は業火に焼かれ続ける無機物になった。(220頁)」という表現である。陶酔していてよくわからない。感受性が豊かすぎるのだろう。
繰り返しになるが、後半は泣いてばかりで、なぜ事件が起こったのかまったく解明されていないので、端的にいえば不出来なミステリーである。「言い訳言い訳きっつー涙言い訳言い訳言い訳きっつー涙笹井先生頑張ります若山のヤロー許せない」にすぎない文章である。
真っ先に連想したのは太宰の「人間失格」だ。太宰の「人間失格」を僕は言い訳文学と捉えているのだけど「あの日」も言い訳文学のスタンダードになりうると思う。そういう文学を目指す人が皆無だから。厳しいことを言わせてもらったけれども、世間を騒がせた当事者の独りよがりな心の叫びなので、一読の価値はあると思う。貴重な時間を費やして僕だけが読んだなんて嫌だよ。今朝。書店がオープンしたと同時にこの本を手に取りレジに向かった僕にヤバい人を見るような目をした可愛らしい店員さんを忘れることができない。こうして今日という日は僕にとっての「あの日」として、忌まわしい記憶のひとつに加えられたのである。
(所要時間3時間。読破の時間含めて)