幻声的キャラクターとしての初音ミク

音声キャラクター

初音ミクという固有名と二次元美少女の図像がもたらすもの - オルタナティヴ・デイジーチェイン・アラウンド・ザ・ワールド

伊藤剛氏は図像と固有名が揃うことでキャラクターが成立し、キャラクターが物語の断片を引き寄せるのではないかと語っていた。物語の断片とは、二次創作のことだと思ってもらえればいい。

初音ミクも、固有名と単なる二次元美少女のイラストが組み合わされることで初音ミクというキャラクターとして成立することになった。そこで初音ミクにまつわる想像力が喚起され、彼女の周囲には物語の断片が集積される。

このように初音ミクを検討していくと、伊藤氏が指摘していたように図像と固有名がキャラクターを成立させ、キャラクターの強度と物語横断性を担保し、物語を呼び起こす源泉となっているというのは蓋然性が高いことのように思える。

ところが違うように思える。東・伊藤の両説の対比は興味深いが、ここでは別の道を行きたい。

その前にまず確認しておこう。藤田咲が演じた音声を人工的に合成する、音楽ソフトウェアとしての「VOCALOID2」と、KEIが描いた画像部分とそれに付随する、キャラクターとしての「初音ミク」、と分けて考えるのは有効だろう。

ただ、初音ミクの二次創作が後者でしか成立しないのは、ソフトウェアで音楽を作るのは一次創作*1、少なくとも発売元のクリプトンの規約を読む限りそうなる、という定義的な側面がある。もちろん、DTMソフトでは物語性の源泉にはなりにくいが、音楽性の源泉にはなるだろう。ショパンにとってのピアノのように、DJにとってのレコードのように。

さて、図像がキャラクターを成立させるというのは、かなり分かりやすい話である。確かに、人間の認知は視覚情報が主なので、印象のうち図像(特に顔)が占める割合は高いだろう。それではなぜ不満かというと、別に初音ミクでなくても、他のキャラクターにもだいたい当てはまってしまうからだ。声が抜け落ちているのでは、初音ミクの特殊性を見落としてしまう。

少なくとも、キャラクターの成立にとって、図像は重要ではあっても、必要不可欠な要素ではない。音声キャラクター(声キャラ)は成立する。しなければ、ボイスドラマは作られまい。アニメの声優、例えば釘宮ボイスのツンデレキャラなどは、良くも悪くも声優のキャラ立ちが、よく図像に勝ってしまう(「また釘宮キャラか」)。

しかも、図像でも確固たる同一性は揺らぐ場合がある。「ひぐらしのなく頃に」は、原作版とアニメ版でかなり絵が違うので、どちらがレナのイメージか、片方のバージョンを知らない読者間では異なるし、両方知っている一人の読者の内部でも「ゆらぎ」があるだろう。

だから、図像こそがキャラクターを決定するというのではなくて、何がキャラクターの同一性を決めるか、というヘゲモニーを争う余地がある。引用先の点の話は、星を星座に見立てるようなことに思えるのだが、そこで最後に「図像に代わるもの」に触れている。その代わる余地があるところに、誤配可能性もあるのだ。

幻声キャラクター

ここまでは、単に足場を組み立てたに過ぎない。キャラクターは図像以外の特徴でも成立する、と指摘しただけでは、まだ全然足りない。それだけでは、同じように、初音ミクの特殊性を捉えて損なっているからだ。本格的な考察はここから始まる。

まず、声優の話を続けよう。マンガやラノベなど音声を欠いた作品がアニメ化する際は、最初に見るときに声との緊張関係がある。そして、聞いているうちに、キャラクターと声が不可分に感じれば、「声がマッチしている」と評されるだろう*2。

そういう緊張は、電話から初めて相手の声を聞くときなど、日常生活でも同じだ。しかも、チャップリンの『街の灯』のように、相手の情報の誤配可能性が、劇的な物語を作る場合もある。この現象を更に詳しく掘り下げよう。

「幻声」という概念を、名前・顔の情報と声との、こうした解離に対して与えよう。特定の発話者に帰属しない声のことだ。そして、対象としての幻声は、主体の幻聴と対応する。この浮遊する声が憑依する身体を見つけたとき、非幻聴化、すなわち、声が主観化する。どういうことか。

映画やテレビ番組のナレーションでは、普通はナレータは画面に現れない。この幻声化・幻聴化は、ナレーションに全体性の幻想を与える。すなわち、特定の個人的な主観ではなくて、他者の声(「民衆の声」のようなもの)として、視聴者は聞く。また、スタッフや観客の笑い声を被せれば、公認された笑い所だと安心して笑える*3。他には、交通機関などの音声案内もそうだ。

この幻想の声は、恐ろしい強迫的なものにもなりうる。例えば、脅迫電話を掛けてくる姿なき犯罪者という像が典型的だ。たいていは、個人を特定できないよう、機械やガスで声を変えて犯人は喋るのだが、そのことが、潜在的な脅威が遍在しているという、無意識の恐怖を聞く者に与えるだろう。

幻声的キャラクターとしての初音ミク

いよいよ初音ミクの特殊性について触れよう。注意しておくと、初音ミクの公式イラストは、それがオタク文化内の相対的なものであるにしても、都会的で洗練されたデザインだと思っている。二次創作の絵と比べると、そのスマートさがよく分かる。

また、イラストをつけてキャラクター化するのは、キャラクタービジネス的には極めて効率の良い手法だろう。VOCALOID2がVOCALOID1より話題になったのは、その技術力はもちろんだが、ニコニコ動画というCGMメディアと、初音ミクというキャラクターとの相性が良かったからだろう。

だが、音楽ソフトなのだから、可能性の中心はやはり音声に見出したい。初音ミクに最初に感じたのは、人間の歌声に近いという驚きだ。そして、人間に近づくことによって、何が可能になるのか、というところに関心がある。

キャラクターの強度と横断する力を与えているのは、幻声的キャラクターとしての初音ミクだと考える。図像的キャラクターとしての初音ミクも、キャラクターの統一性と認識性を与えているが、それは浮遊して動き回ろうとする声を縛る、仮の実体*4ではないだろうか。

VOCALOID2で制作したオリジナルソングに、初音ミクのキャラクターが物語の断片を与える、という役割は確かに見られる。だが、既存の曲の演奏・二次創作に使われることも非常に多い。特に、例えばゲームの効果音の再現だとか、楽器として使われる場合、通常の「声キャラクター」の域を超えて「音キャラクター」になれるので、ミクの特殊性が明らかになる。

先の釘宮が釘宮キャラ・釘宮主観にしてしまった例のように、あるいは『千と千尋』の「カオナシ」のように「コエナシ」とでもいうか、相手作品の図像を奪って、初音キャラ・初音主観にしてしまうことがある。これは、多重人格で声色を変える演出に近いので、実は不気味さもあるのだが、腹話術のようにネタ(ネギなど)で弱毒化することで、萌えに転化する。それが、いわゆる「みっくみく」にするということだ。

そのようにして、初音ミクはニコ動に遍在する。原理的には人間も遍在できる*5が、身体的な制約があるので、ミクほど高速かつ多様に拡散・浸透するのは難しい。そして、最近では「Perfume」が人気だが、電子系音楽には元々そういう志向性がある。ボーカルの声を電子的に処理して、電子音に近づけたりする*6だろう。この人格解体の享楽と、初音ミクの人格構築(主観化)は、反転した関係なのである。

*1:もちろん、音楽同人のように、曲の二次創作も作れるが、「VOCALOID2」は利用しているだけであって、「VOCALOID2」の二次創作ではない。対して、「初音ミク」の絵を描けば、「初音ミク」の二次創作になる。すなわち、初音ミクはキャラクターなのである

*2:OP・EDテーマやBGMなどの音楽も、同じように緊張関係がある

*3:逆に、安心して笑えない場合はなぜかといえば、笑いは他者を傷つける恐れがあるからだ

*4:あるいは、「エクスデス」と「ネオエクスデス」のような関係

*5:というか、複製技術の発展が可能にしてきた

*6:ここで興味深いのは、鏡音リンに「とかちつくちて」を歌わせるだけではなく、元の「とかちつくちて」を処理して、鏡音リンに近づけようというMADが存在することã