集団主義的な自己責任

長らく「日本人は集団主義」だと言われてきた。会社も学校も「個人化」しているといわれる現在、これが変わったのだろうか?繰り返すように、日本の労働・経済政策に大きな発言力を持っている某社長は「過労死は自己管理の問題」とまで言い放っている。この発言は大きく非難されているが、今でもこの社長の社会的地位に全く影響が及んでいないように、非難の力は圧倒的に弱い。そう考えると、もう日本的集団主義は死んでしまったのだろうか。

しかし、私のみるところ全く変わっていない。某社長など財界人の発言を聞いていると、いろいろ言っているが要するに「甘えて楽するんじゃない。もっと競争社会の中で苦労しろ」という以上のことを言っていないような気がする。つまり、「苦労して働いていないやつがいるなんてけしからん」というわけである。これが個人主義の社会だったら、人がどう働くかは個人の問題で良いも悪いもない。ヨーロッパで失業率が高い理由はいろいろあるだろうが、一つには働くことがイコール「社会人」であるという前提がないことがあげられる。飢え死にするほどではないなら苦労して働く必要はなく、失業保険で食って平然としているというのが個人主義社会の流儀なのである。

しかし日本では、「個人の自由」や「自己責任」という言葉が踊っているのに、なぜか最終的に「みんなで苦労しましょう」という話になってしまう。高度にアメリカナイズされているように見える竹中平蔵にしても、「郵便局員は楽をしているけしからん」云々と、合理主義的なアメリカ人がおよそ言いそうにないオヤジの説教のような言葉を吐いていた。だから私に言わせれば、「自己責任」というのは「欲しがりません勝つまでは」というスローガンと大して変わらないのである。一般国民は別に件の某社長や竹中を支持しているわけではない(むしろ嫌っていると思われる)が、全体としてはこうした風潮に乗っかっている。このことは特に、官僚に対する「贅沢だ」「楽をしている」などというバッシングに顕著に表れている。挙句の果ては、「増税するにしても無駄な財政支出を減らしてほしい」とまで言ってしまう人がいる。「無駄な財政支出」の削減が、当然福祉・医療の分野にも及ぶことが充分にありうるにも関わらずである。本当は、「増税するかわりに行政サービスを充実して欲しい」と言うべきところなのだが、なぜか多くの人は「みんなが苦労する」ほうを好んで選択するのである。こうして年金制度や税制の抜本的な制度改革をすべきところが、官僚の「贅沢」「無駄遣い」のバッシングの前にかき消されてしまうのである。

私が個人主義的な思想に批判的なのは、日本でそれを主張すると「個人で自立して働いていないやつはけしからん」という話になってしまうからである。つまり、親や組織に寄りかかって「楽をしている」と思われている人が、「もっと頑張って苦労しろ」と「集団的」な形で非難されてしまうのである。だから「過労死は自己管理の問題」などとという発言は、野球部の先輩が後輩を「お前は練習が足りない」と叱りつけることと何の違いも感じないのである。しかも野球部の集団主義とは違って、経済界のトップの人々は「自己管理」の名の下に社会的な責任をどんどん放棄している。このように、集団主義的な物言いで個人主義の美辞麗句が語られることは、非常に腹立たしいばかりでなく、社会にとってもきわめて危険なことを自覚するべきである。