なぜ日本人は哲学を必要としないのか

pikarrr2010-09-25

日本人は集団を重視して強い個を好まない


西洋哲学が日本の慣習に相容れない一番の理由は、西洋哲学が強い個をもとにしているから。日本人は集団を重視して強い個を好まない。

哲学はさまざまな「他者」の多様な価値社会の中で、共通した基盤を作れないか、という強い願望から発達したもの。日本人のようにハイコンテクストな社会ではその差し迫った願望自体を感じることができない。幸せなことに共通した基盤が湯水のように何の苦労もなく手に入る。日本人は手に入っていることさえ気付かない幸福な状態にある。

最近は集団が解体しつつあるといいながらも、まだまだハイコンテクストな社会であることにはかわりがない。「空気をよめ」は、見ず知らずでも日本人同士なら空気(コンテクスト)を共有できることが共有されていることを示している。

集団主義といいながら、確かに日本人は西洋人より、他人に無関心、自分の利益優先、自己肯定がより強い面があって、でもこれこそ集団主義の裏面。集団に守られている状況が生み出している。よく言われる外づらがいいが、うちづらはわがままの状態。




集団から「落ちこぼれた」日本人たち


日本人が哲学にはまる一番は、思春期。思春期はいままで帰属した集団から新たに集団に移行する過渡期で、哲学はいまの集団を懐疑する方法を与える。このとき日本人は哲学をもっとも消費する。そしてしばらくして新たな集団に帰属すると哲学は必要としなくなる。

ただ最近は思春期状態が大人になっても続く人が増えている。また集団が解体しつつあるので、哲学の需要は増えている。

集団から「落ちこぼれた」日本人たちは、強い個として自立しようとは働かない。どこまでも集団中心の慣習から離れることはない。だから哲学のもつ自立した強い個より、懐疑主義が好まれる。この世界に確かなものはないという方法が、自らを受け入れない、あるいは強く働かない帰属力の集団への恨み節として使われる。




産業立国、貨幣依存による日本社会


たしかに司法、行政など西洋の個を主体とした民主主義システムを取り入れているが、実働の慣習レベルでは異なる力学で社会は動いている。

むしろ日本人が高い順応性を示したのが、資本主義だろう。資本主義の特に生産の面で、集団主義はよく機能する。資本主義の基本は分業である。時間、空間的にシンクロして生産効率を高めて言う上で集団主義がよく機能し、日本は世界有数の産業国家になった。

さらに資本主義で重要なのが貨幣である。貨幣は集団を解体する要素をもち、日本でも強い集団の力学を解体している。しかし貨幣のわかりやすい分配機能が強い個を持たなくても、個人単位の生活基盤を可能にしている。

貨幣があれば一人でも生活できるコンビニエンスな社会基盤の発達が、強い個人の責任をともなわない個人の自由(きまま)な活動を可能にしている。そして緩やかな集団の繋がりを可能にしている。

このように日本人は産業立国、貨幣依存によって日本人になじみやすい新たな近代社会を生み出した。




集団責任、趣向への没入

 
責任は集団に任せる自立せず無関心な個、その分の有り余った時間を自らの趣向へ没入する。このような姿は会社人間と呼ばれた時代から、クールジャパンと言われる未成熟できめ細かい文化まで変わらない近代日本人の特徴と言えるだろう。

日本では民主主義の本質である個人の自立、尊重は慣習的には受け入れられているとは言い難い。資本主義中心に西洋文化を受け入れ、民主主義も資本主義を機能させるための補完システムとして機能している。
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*1:画像元 http://www.kanshin.com/keyword/1050789