なぜオタクはニコニコ動画を語れないのか 「ネット動画時代の芸術作品」

pikarrr2008-05-13


なぜマンガは子供が見るものなのか


マンガは子供が見るものと言われてきた。日本のようなマンガによる多様な表現が行われるマンガ先進国でも、まだまだそのような考えは根強い。

なぜマンガは子供が見るものなのだろうか。簡単に言えば、実写に比べて画像表現のリアリティに欠けるからだろう。カメラが写すだけでは、光の情報しかない。人が「見る」ということは、「〜として見る」というように能動的に解釈することが必要である。

マンガは必要な情報だけを抜き出し、デフォルメされて書かれる。だから写真を見る場合には一から解釈する必要があるのに対して、マンガはすでに解釈されて提供される。(実際は写真もなにを写すというような解釈が含まれている。)

社会性が未熟な子供に対してマンガは、かわいいものはかわいく、怖いものは怖く、描くことで理解しやすいように噛み砕いて提供してあげる。その中で子供は社会的な解釈の共通基盤を学んでゆく。

このようなマンガにおける情報の縮減効果(解釈)は、子供のためというよりも、マンガそのものがもつ特徴である。このために大人にとっては、すでにある解釈が行われて提供されることで、幼稚で、リアリティのないものと感じてしまう。

だからマンガが子供のものから大人へと向かうためには、何らかの工夫が必要になる。たとえば「あしたのジョー」などの劇画ブームの時には、それまで以上に詳細に描き込まれることでリアリズムをめざす工夫がなされた。あるいは劇画に対抗して手塚治虫が書いた「ブラックジャック」は、そのテーマを倫理的なものとすることで、大人でも楽しめるものとした。




オタクというアイロニカルな運動


オタク的なマンガ・アニメ表現がめざしたものは、これらとは異なるだろう。オタクが、わかりやすく幼稚なマンガ絵表現でも楽しめるのは、そこにアイロニーの構造があるからだ。オタクにとって解釈は静的にあたえられるものではなく、「おっ、このマンガはこのような切り口できたか」、「最近のマンガの流れに対して新鮮みがないな」などと、解釈に積極的に介入する。

オタクは単なるマンガの受容者ではなく、表現と意味との間の<解釈項>を括弧に入れることで、「裂け目」を開き、そこに評論や二次創作などを展開する。そしてこれらの解釈の運動を継続することでオタクという共通基盤(コンテクスト)を作り出す。




「複写技術時代」の「現実(リアリティ)」


たとえばルネサンス期について、芸術作品においてそれまでの神学的な表現からリアルな人間表現への変化があったと語られる。それ以来、芸術作品は破壊と創造を繰り返しつつ、時代の先端を表現するものと位置づけられてきた。そして現代では破壊と創造のスピードが速まり、もはや芸術作品は解体そのものだけが残ってしまっているようだ。

アガンベンは、ベンヤミンの「アウラ」論を参照に、このような近代以降の「ショック体験」の傾向を指摘する。

奇妙にも彼(ベンヤミン)は、この「アウラの凋落」によって結果的に「対象が文化的外皮から解放」されたり、その瞬間から政治的な実践に基づくようになったりするのではけっしてなく、むしろ、新たな「アウラ」が再構成されてしまうことに気づいていなかった。・・・複写可能になることで芸術作品の真正性は放棄されるどころか、芸術作品は逆に、・・・感性的な美の顕現が生じる空間となる。

彼(ボードレール)は、文化の伝承不可能性そのものを新しい価値に転化し、芸術作品自体のただなかでショックを経験させることによって、この課題を成し遂げたのである。ショックとは、ある特定の文化秩序のなかで事物がもっていた伝承可能性や理解可能性が喪失するときに、事物が帯びることになる軋轢の力である。・・・異化価値を生み出すこと、それは現代の芸術家に特有の課題となったのである。この課題こそ、文化の伝承可能性の破壊にほかならない。P157-158


「中身のない人間」 ジョルジョ・アガンベン (ISBN:4409030698)

「アウラの凋落」と類似されるのが、ポストモダン論の「大きな物語の終焉」だろう。情報化社会においては、一つの大きな物語(解釈項)を社会で広く共有することが難しくなる。それによって、表現とその意味の間に「裂け目」が現れる。

そしてアガンベンが「新たなアウラが再構成される」というとき、新たな「物語」の作られ方が指摘されている。すなわちもはや静的に文化が伝承されることは不可能であり、価値転化の「ショック体験」によって新たな文化的な現実(リアリティ)が生まれる、ということだ。ある解釈が受け入れられても、そのとたんにアイロニーな運動に巻き込まれ対象化され、そしてその現実(リアリティ)は陳腐化する。だからたえず新たな新しい価値に転化しつづけることが、「複製技術時代」の「現実(リアリティ)」の保たれ方であるのだ。




オタクの驚異的な生産性


このような「複製技術時代」の傾向は資本主義的消費社会において、使い捨てという発散的な傾向を生みやすい。入れ替えの速い代謝の中で流行に乗り遅れないよう脅迫的になる。そしてある人は方向性を見失うだろう。

たとえば最近いわれる「空気を読め」ということは、そこにすでに「空気」があるということではなく、ないことによる緊張感に自覚をもち、あるように振るまうよう努力しろ、ということだ。この緊張感を感じられず無神経に振るまう人は「KY」と呼ばれる。

もはや「空気」は驚き、笑い、感動などの「ショックの経験」によってしか、見いだすことができないのだから、ほんとうにおもしろいかどうかではなく、みなが笑ったときには笑う、みなが感動したときには感動する、みなが「かわいい」といってときに「かわいい」という。せめてその場では「空気」があるように振るまう努力が求められる。

このような脅迫的な状況に対して、オタクは「ショックの経験」を生産的に活用している。新たな価値を使い捨てるのではなく、評論や二次創作を紡ぐことで文化的な共通基盤(コンテクスト)を構築している。彼らの二次元的で幼稚なエロティシズムのマンガ絵は、「大きな物語」=旧来の強い社会性を排除し、社会の流動性に柔軟に対照するためだともいえるだろう。




セカイ系の形式化


このようなオタクの現代社会への高い適応性に対して、オタクが社会的には異端視されるのはなぜか不思議である。

東浩紀はオタクのセカイ系を「象徴界の消失」と言った。象徴界とは広く社会に共有された<解釈項>であり、無意識に社会基盤を支えている。だから「象徴界の消失」とは、先の「大きな物語の終焉」を意味する。斎藤環がいうように象徴界(無意識)は言語の次元であり、簡単に消失するものではないが、それでも「象徴界の消失」というメタファーによって表現されるのは、共通基盤の消失以上の意味がある。

セカイ系の物語は、彼女は兵器で世界戦争が起こる。彼女が宇宙戦争に出向き携帯でやりとりする。使徒なる敵が攻めてきて戦いに失敗すれば世界が滅亡する、というように極限的なシチュエーションが設定される。そして社会的な背景が排除(「象徴界の消失」)され、シチュエーションの枠組みだけが強調される。たとえば敵は悪役でも、ライバルでもなく、ただ攻めてくる。そこには「何のために戦うのか」(意味)が消失している。

このような構造の形式化では表現のみがあり、その意味が消失する。そして「解釈機械」ともいうべきオタクは終わりのない「解釈の無限ループ」に陥ってしまう。そしてこのように「裂け目」(現実界)を開示することで解釈を求めるオタク運動が活性化される。




「認知系」のキモいオタクと「行為系」のモテ男


確かに現代は解釈項を共有することが困難である。しかし自己言及のような「解釈の無限ループ」は疑似問題である。なぜなら人は、「なんのために生きるのか」と問う前にすでに生きている。このような疑似問題は過剰に「なんのために」と問うことではじめて生まれる。

「解釈機械」としてのオタクは、一般的に「暗い」、「キモい」、「空気読めない」というような悪いイメージで語られる。これは、意味を求めすぎて過剰であり、ナイーブすぎるためだ。オタクは、「空気が読めない」のではなく、過剰に空気に敏感であるために自然に振るまうことが苦手なのだ。たとえば女性と接するなどの慣れない状況では過剰にナイーブに意味を読み込もうと、「解釈の無限ループ」に陥る傾向がある。

では「自然な振るまい」とはなにか。たとえば「どのように歩いているか」と考えてみれば、「ただ歩いているだけ」としか答えられない。しかし二足歩行ロボットの研究でわかったことは歩くと言うことがとても高度な行為であるということだ。それでも人はただ歩いているだけであり、「どのように歩いているか」と問うことは過剰をこえて異常である。ここに「自然な振るまい」と「過剰な解釈」の差がある。

人は基本的には世界とこのような「行為」によって関わっている。行為は連続性であり、死ぬまで切れ目がない。だから「歩く」と言うとき、言語表現としてある動作を切り取って解釈しようとしているのであって、このような解釈と実際に歩くという「行為」とは関係がない。

オタクは、行為系よりも認知系が先行しやすく内省的であるのに対して、「モテる男」は場慣れして空気を読むのがうまいと言うだけではなく、考えすぎず、認知系よりも行為系を先行させていくこで「自然な振るまい」がうまいのである。




決断主義はナイーブすぎる


セカイ系では、オタクは過剰な認知系とナイーブさによってあえて「解釈の無限ループ」を作り出している。斎藤はこのようにあえて「解釈の無限ループ」(現実界)へ近接することを「享楽」と呼ぶ。オタクは「享楽」によって、このような社会的なナイーブな閉塞から突破するイメージを「戦闘美少女」に託し発散する。そこに「戦闘美少女」への「萌え」というエクスタシーが生まれるのだ。

セカイ系での戦闘シーンは必ずしも多くない。多くは主人公が反省する静かで閉塞したシーンである。そこに突然、敵が到来する。それはアンチヒーローのような社会性を背負ってはおらず、「エヴァンゲリオン」の使徒に象徴されるように、「漠然とした敵」である。そして「戦闘美少女」はこの外部から飛来した不気味な敵を殺戮する。それはアンチヒーローを倒すような決闘ではなく、「純粋」に殺戮するのである。

それは内部の敵ではなく、外部から到来する不気味なものである故に、内部の価値(倫理)である罪悪感なく、殺戮できるのだ。これこそが斉藤がいう「享楽」である。「ファリック・ガールが戦闘するとき、彼女はファルスに同一化しつつ戦いを享楽」する。そして「ファリック・ガールに対して、われわれは享楽のイメージ(リアリティ)に魅了され、それを描かれたエロスの魅力(セクシュアリティ)と混同することで「萌え」が成立する。」ここに閉塞した日常に対して、無垢な戦闘美少女を通路として外部が開かれ、エクスタシーが生まれる。


「セカイ系のエクスタシー(享楽)」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080304

「ゼロ年代」論ではセカイ系から「決断主義」へという流れがあるとも言われる。決断主義的と言われる「DEATH NOTE」や「コードギアス 反逆のルルーシュ」の特徴は、まず他者を殺すことから始まる。他者の殺害は、一見、利己的な行為ではあるが、「DEATH NOTE」のラストでライトが惨めに死ぬように、最後には自らがその社会的な負債を背負うという覚悟を意味する。

社会的な負債を背負うことで、強く社会に関わるという決断であるが、他者を殺害することでしか他者とかかわれないとはなんとナイーブだろうか。決断主義はセカイ系の閉塞から脱出する決断であるかもしれないが、行為系の「自然な振るまい」に対してはセカイ系と決断はナイーブな面の裏表であるといえる。




なぜオタクはニコニコ動画を語れないのか


最近のオタク運動で驚きなのは、ニコニコ動画関連だろう。たとえば「初音ミク」ではただVOCALODという技術とパッケージの絵だけで、これだけの運動性を生み出し、文化的な共通基盤へと発展させたことは驚きである。

ニコニコ動画などの運動は、「オタク第四世代」と位置づけられることもあるが、従来のオタク評論によってうまく記述できず、多くのオタクが違和感をもっている。

例えば、同人誌であれば、それが全年齢向けだろうがエロ同人だろうが、元ネタを見ずとも、元々のキャラの設定が生かして描かれ、そのように振舞うから、容易に、ああこのキャラはツンデレでこのキャラは感情が稀薄でこのキャラはドジッ娘なのか、と把握できるのだが、アイマスMADではそれがはっきりしない。

もちろんアイマスをプレイした者やプレイ動画を試聴していれば、その文脈を読み込めるのだろうし、絵からもある程度キャラ設定を類推することもできる。そうした「キャラ萌え」視点で動画を楽しんでいる人もたくさんいるのだろう。しかし、そうはいってもアイマスのキャラは、「らき☆すた」ほど萌え記号に特化しているわけではない。その上MAD上においては、キャラ設定が特に生かされるわけでもない。なにしろ、彼女たちはただ踊っているだけであり、しかも彼女たちの歌うのは、しばしばゲームとは関係のないアニソンやアイドル楽曲なのだ。それどころか、その広がりは全音楽ジャンルに及んでいる。岡村靖幸を検索する。MADがある。Jazztronikを検索する。MADがある。Spank Happyを検索する。MADがある。この癌細胞のような広がり──この例えはあまり良くない。実際、僕は別に悪い気はしないのだ。


araig:net 「オタクでない僕によるオタク第四世代論」  http://d.hatena.ne.jp/araignet/20080119/1200679224

(「とかちつくちて」は)見た瞬間、何回も繰り返し見たくなるような、何かがあるのだ。それは、普通に使われる意味での「萌え要素」ではない(「燃え要素」と表現しても依然としてズレがある)。「メイド」だとか「ツンデレ」だとか、既に流通している類型的な枠組み、「お約束」ではない。それはいったい何なのか。

「とかちつくちて」は、享楽の核である。アイマスの中にあって、アイマス以上の存在感を持つ、意味のない記号(声)である。「とかち」に魅了された者は、繰り返し動画を再生することによって、記号の背後の複雑な内面なりを想像するのではなく、むしろ記号自体と同一化しようとする。


「とかちつくちて」って何? - 萌え理論Blog  http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20071219/p2

これらの苦慮した文章を見ると、「萌え記号」や「享楽の核」などのように過剰にオタク的評価などせずに、「ただ踊っているだけの楽曲」であり、「何回も繰り返し見たくなるような、何か」は単にたまたま耳にした音楽が心地よくて耳から離れないような自然な快感として考える方が自然ではないだろうか。

ニコニコ動画で行われていることを、旧来のオタク評論で過剰に語ろうとすると挫けてしまうのだ。ニコニコ動画の運動に、セカイ系の「萌え」や「享楽」を読み込むのはミスリーディングである。そこにはセカイ系のようなナイーブさはどこへやら、「考える前にやっている」という行為系を先行している。

たとえば好きな音楽について認知系によって「この音楽のなにが好きなのか」と語る場合にも同じような困難さがある。音楽そのものを楽しむのは認知系よりも行為系によって行われるために、「好きだから好き」としか言えないのだ。

そしてむしろ嗜好の殆どは認知系よりも行為系が先行する。認知系を先行させて作品を楽しむという「オタク」的な傾向がむしろ特別なのである。「例えば、同人誌であれば・・・容易に、ああこのキャラはツンデレでこのキャラは感情が稀薄でこのキャラはドジッ娘なのか、と把握できる」という楽しみ方が一般的にはかわっているのだ。面白いものは面白い。心地よいものは心地よい。それが「自然な振るまい」である。




「ネット動画技術時代の芸術作品」


ニコニコ動画は、旧来のオタクによる作品(ソフト)評論を挫く。むしろベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」によって、新たな技術の出現としてた写真や映画を語ったように、新たなハード論として語るほうがとらえやすいかもしれない。

ニコニコ動画上の動画ソフトのめまぐるしい運動は、強力なハードの共通基盤に支えられている。「ニコニコ動画」サイトの動画公開システムやコメント表示システム、あるいは動画をつくるソフト技術、ボーカロイド技術など。だからニコニコ動画の表現内容やその楽しみ方はこれらハードの限界によって規定されている。

たとえば現段階での素人の「ネット動画制作技術」では、プロ並みのアニメ作品を作ることは難しい。それでも、作品が動画であるといえるのは、マンガ絵が動くと言うよりも、音楽が流れていることによって支えられている。このような技術的な制約からニコニコ動画の作品は音楽主体にならざる終えない。




ニコニコ動画は行為系の「オタク音楽カルチャー」


斎藤環は、日本のマンガ・アニメの特別性の一つが「視覚系」にあると指摘している。実写映画などの「聴覚−運動系」では、「フレームごとの時間の流れはあくまで均質であり、情緒的な引き延ばしや誇張は最小限に留められる」が、「視覚系」の日本のマンガ・アニメの場合には、「一瞬の出来事を高密度に、しかもごく自然な手つきで描くという技法が一般化し・・・読者の主観的没入を強力に呼び込」むということだ。

養老猛氏よれば、脳の機能には「視覚系」と「聴覚−運動系」の二つがある。これはリアリティ認識の二つの系として理解できる。視覚系のリアリティが無時間的な認知であるとすれば、聴覚−運動系のリアリティは時間的要素を認知に取り込むことで成立している。

アメ・コミは基本的に映画手法に史実である。つまりアメ・コミはクロノス時間を全面的に採用する。フレームごとの時間の流れはあくまで均質であり、情緒的な引き延ばしや誇張は最小限に留められる。人物の主観はつねにモノローグで記入されており、必要以上に読者の没入を要求しない。これに対して日本の漫画では、とりわけ手塚以降のカイロス時間の導入によって、一瞬の出来事を高密度に、しかもごく自然な手つきで描くという技法が一般化した。この表現技法はその後も発展的に受けつがれ、読者の主観的没入を強力に呼び込み、きわめて速い読解を可能をすべく洗練されてきた。


「戦闘美少女の精神分析」 斎藤環 (ISBN:4480422161)

音楽を楽しむのは「聴覚−運動系」(「行為系」)であり、オタクに楽しむのは「視覚系」(「認知系」)である。そして個人的な嗜好の多くは「聴覚−運動系」(「行為系」)として楽しまれる。だから作品にアイロニカルにそして嗜好に意味を求めることで没入するようなオタク的な楽しみの方が特殊である。

すなわちニコニコ動画上で行われている動画の多くは、現在の「ネット動画技術時代」の技術制約によって、認知系のオタク文化と行為系の音楽文化が癒合されて新たな表現を生み出ている。そしてどちらかといえば行為系が先行する「オタク系音楽カルチャー」だといえる。

当然、それらを享受する人々も従来の認知系のオタクとは異なり、行為系との混血の「ライトオタク」の傾向をもつだろう。そして彼らを「オタク第四世代」と位置づけるかは、定義好きの旧来のオタクにゆだねられる。ニコニコ動画系オタクは「自らが何者であるかよりもただ楽しんでいるだけ」なのだろう。そして従来のオタクよりも「モテ男」率が高いだろう。
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