オタクであることはなぜ恥ずかしいのか

pikarrr2006-05-24

なぜ「オタク」は恥ずかしのか


「涼宮ハルヒの憂鬱」がなにげに人気です。ストーリーテーラー役のキョンはいつも被害者で、いつも正常(正しい)です。それは、責任はいつも外部にあるという責任回避的立場です。それでいて、ハルヒに繋がることでセカイの中心にいることができる。これってとても幸せな立場です。

そもそもセカイの中心にいることは難しいことですが、それで重要な位置にいるときには、そこに大きな責任がともなうものです。しかしキョンは責任回避しながらセカイの中心にいられるわけです。それでいてかわいい女性に好かれるのですから、こんな都合の良い、おいしい立ち位置はありません。これがセカイ系の物語の一般的なパターンではないでしょうか。

セカイ系の物語へはまることの「恥ずかしさ」は、このような「責任回避しながらセカイの中心にいる」というとても都合の良い、そして「現実逃避」的であるからです。「オタク系アニメ」は本質的にこのようなセカイ系の構造を持っているために、「恥ずかしい」のであり、さらには「オタク」であることそのもの「後ろめたさ」もまさにこのような都合の良い「現実逃避」への共感にあります。




オタクの開き直り(自虐性)


さらに「涼宮ハルヒの憂鬱」はエヴァ、ほしのこえ、最終兵器彼女などの過去の正統派?セカイ系のパロディになっています。パロディとは、もはやセカイ系という都合の良い物語になんとか「リアリティ」を持たせようという努力、それは、様々なシチュエーション(装飾)を作り込む努力があることに自覚的であり、「あえて」省いているということです。そしてこの装飾とは、まさにセカイ系物語の「恥ずかしさ」の隠蔽でもありました。

学園という身近な小さな世界に、超能力から、宇宙人から、さらにはセカイそのものがハルヒにシンクロしているというセカイ系のシチュエーションを、特に背後の物語もなく、ただ詰め込んでいる。これはかなり確信犯的で、セカイ系のシチュエーション(秘密)は、なんらかの「もったいぶった」物語として現れてくるのではなく、有希などの登場人物がいきなりすべてを一気に語り出すことで示される。「とりあえずそういうことだから、なぜとか、細かいことは語るだけ、むしろ胡散臭いから」、ということです。

ある意味で開き直って、「そうさ。セカイ系にリアリティーなんかないのさ。リアリティを持たせるために様々なシチュエーション(装飾)で飾る努力こそが嘘くさいのさ。セカイ系的に自己満足して何が悪い。恥ずかしくて何が悪い。」というある種の開き直りであり、これをボクはある種に「自虐性」と呼びました。「涼宮ハルヒの憂鬱」への賛同の一つの理由は、ハルヒ自身の潔さにも共鳴している、このような開き直りによる「新しさ(リアリティ)」、ではないでしょうか。
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