野蛮な食べ方

30歳を過ぎるまで、カラスミというものを食べたことがなかった。そういう珍味が世の中にあることも知らなかった。
結婚して数年経った頃、お歳暮かなんかで九州の人からカラスミを頂いた。
「なにこれ」
「カラスミ。ボラの卵巣を塩漬けにしたやつ。食ったことないか」
「ない」
「酒のあてに最高だぞ」
「へえー(ワクワク)」。
薄くスライスして皿に並べた。見たとこ奈良漬けそっくりだ。なんかパッとしない食べ物だね。しかし一切れ齧ってみると‥‥ナニコレウマイ! 
日本酒を飲みながら「おいしいねー」と喜んでカラスミを口に放り込んでいたら、「おいおい」と夫に咎められた。
「そうパクパク食うなて。奈良漬けじゃないんだから。これ、幾らするか知ってるか」
「知らない」
「五千円はする」
「えっ、そんなに」
「チビリチビリと食べるもんなの、こういうのは。パクパク食うもんじゃないの」
そうなんだ。


滋賀の人から鮒寿司が送られてきた時も、同じようなことがあった。鮒寿司はなれ寿司の一種で、魚と酢飯を乳酸発酵させたもの。十分に発酵が進んで鮒と御飯が半分溶け合ったような状態のものが、高級とされる。どこかブルーチーズに似ていて匂いだけでダメな人もいるかもしれないが、初めて食べて大好きになった。これは癖になる味だ。
「こないだ貰った鮒寿司は?」
「あるよ」
「‥‥えっ、もうこんだけ?」
「うん、だっておいしかったし」
「おまえなぁ‥‥これ幾らすると‥‥」
「三千円くらい?」
「バカ、その二倍以上だわ」
おお。



夫は、「おまえはほんとにモノを知らない。知らないとはオソロシイことだ。高いもののあり難みもわからないのだ。まあある意味シアワセだ」などと、しばらくブツクサ言っていた。厭味な奴だ。*1
値段もそうだが、そもそもそういうのはチビリチビリと食べるべき種類のもの(珍味だし)という意見もあろう。いくらおいしかったからって、その時食べたいだけ食べてしまうのはやはり、その種の食べ物に対して無粋で野蛮な態度ということになろうか。


おいしいものを食べ方を知らなかったがゆえにパクパク食べてしまった例として、夫がよく出すのが長嶋茂雄のフグ刺の「伝説」である。
長嶋茂雄はある時、仲間と連れ立ってフグ料理屋に行った。古伊万里かなんかの大皿に、菊のように美しく盛られたフグの薄造りが出てきた。長嶋は皿の上に整然と並んでいるフグ刺を箸でガーッと半周近く豪快に取って食した。「おいしいねー」と言いながら、残りも二口くらいで。他の人はほとんど食べずじまい(フグの大皿が自分の前に置かれた時、「あれ、みんなのはどこ?」と言ったという説もある)。


私のカラスミや鮒寿司などをはるかに上回るスケールの、長嶋茂雄のフグ刺一気食い。そんな食べ方は無作法だとか無知の証だとか、一枚ずつ味わわねばフグ刺の滋味と歯ごたえは堪能できないとか、「洗練された食文化」の立場からいろいろ言うことはできる。
言われないのはひとえに、長嶋茂雄が天才だから。天才の野蛮は天然として許される。だが凡人のそれは無知として軽蔑される。


「洗練された食文化」と言われるものはある意味、痩せ我慢のカッコつけの倒錯文化だ。珍味をチビリチビリと舐めながら、こうすれば旨味が増すああすれば風味が出る、この作法で食えいや時にはルールを無視せよとか嘯いている文化。B級グルメの流行も「洗練」と表裏一体だ。
文化はどんなジャンルでも、高度で複雑になればなるほどそうなっていく。
そういうことを気にせず、「おいしいねー」で何でも好きなだけお腹いっぱいパクパク食べようとする人は、この文化圏では田舎者、あるいは野蛮人である。


私も今では半分くらい、痩せ我慢倒錯文化に取り込まれた。
透けるほど薄く切ったカラスミを大根薄切りに載せてチビリチビリと齧りながら、BSの『ワイルドライフ』で飢えた雄ライオンが野生のバッファローの肉に食らいつく様をうっとりと眺めている。カラスミの風味と、嗅いだこともないバッファローの血の匂いが、口の中で混じっている。

*1:カラスミはたしか10分足らずの間に5、6枚食べたところでストップがかかった。夫によれば1枚で1合呑めるそうだ。それはちょっと私にはストイック過ぎる食べ方(別に夫の分まで食べたわけじゃないよw 鮒寿司は3〜4日かけて半分以上自分が食べたけど、夫は私ほど執着がないのでいいと思ったんだよ)。