冤罪と死刑について考えさせる『黒い司法 0%からの奇跡』

早くも師走感が漂ってきた中、この一ヶ月ほどやたらと忙しく、ここの更新も遅れてしまいました。公私共にいろんな案件が同時多発で‥‥映画をチェックしてる暇もなく‥‥。

ところで映画ってなんであんなに長いんでしょうか。一時間くらいで十分だと思いますけど。特にハリウッド映画とかね。きっと、金と時間をかけないとならないシステムが出来上がっているんでしょうね。

 

さて、連載「映画は世界を映してる」、今回は先月の袴田巌さんの無罪獲得の話題を枕に、死刑囚と若い弁護士の再審までの遠い道のりを描いた『黒い司法 0%からの奇跡』を取り上げてます。

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実話を元に、冤罪や死刑制度について考えさせる佳作。演出が引き締まった感じでダレるところがまったくなく、結末がわかっていても最後まで引き込まれます。
黒人差別と闘った弁護士を描いた往年の名作『アラバマ物語』を観ていると、もっとこの映画の芯がわかると思います。

そして、俳優陣が皆いいです! エンドロールに演じられた実在の本人たちの当時の画像が出てきて、なるほど、この人をあの俳優が演じたのかと感心することしきりでした。

 

次回は年明けになるかもしれませんが、連載の告知以外の記事が出ると思います。

オートガイネフィリアをめぐって

トランス女性の女性スペース問題で、「TRA」と「TERF」(トランスの権利擁護の活動家とトランス排除的ラディカルフェミニスト。いずれも蔑称とされているようなのでここでは「」付きで使う)は激しく対立している。対立というか並行線だ。

この話題をめぐって昨日、「TERF」の女性にはオートガイネフィリアに対する忌避感があることについてX(Twitter)で言及したら、いろいろな反応があったので、主なものを紹介したい。

 

とりあえずこれまでで、オートガイネフィリアについて私が最初にXで目にしていたのはこの動画である。

⚫︎「オートガイネフィリアとは?」ヘレン・ジョイスの解説(日本語字幕)

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一貫して反「TRA」の立場から語られており、オートガイネフィリアは女装するだけで満足せず、女性スペースに入り女性として扱われようとする人々とされている。この動画が拡散されて、女装したオートガイネフィリアが女子トイレなどに侵入するのではないか、という不安の一因になったと思われる。


ヘレン・ジョイスのインタビューを文字起こししたものはこちら。

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以下に、昨日、フォロワーさんからおすすめされたサイトを3つ紹介する。いずれもアメリカの性科学者・心理学者の論文を和訳して掲載している。ポイントと思われる箇所のみ引用するが、時間があれば是非全文にあたって頂きたい。

 

⚫︎小児期発症型(同性愛) オートガイネフィリア型 突発性発症型
 性別異和は一つではない 

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性別違和を抱える子どもたちの問題に取り組んでいる親たちを含むコミュニティのサイト4thWaveNow(https://4thwavenow.com)に掲載された、アメリカの性科学者レイ・ブランチャードとマイケル・ベイリーの論文。

・2つ目のタイプは、オートガイネフィリア型性別違和で、男性にのみ発生する。これは、自分が女性であると考えたりイメージしたりすることによって、性的興奮を覚える性癖に関連している。このタイプの性別違和は、思春期や成人期に始まり、その発症は一般的に緩やかである。

・オートガイネフィリアを持つ多くの男性は、たまに女装をすることに満足している。女性と結婚する人もいるし、子どもを持つ人もたくさんいる。家族の存在は、幾分か気になるにせよ、その後の性別移行を避ける保証にはならない。過去数十年間、オートガイネフィリアの男性が性別移行する場合、女性と結婚して子どもをもうけた後、30~50歳の間に移行することがほとんどであった。最近では、思春期を含むより若い年齢で移行を試みている可能性がある。

・オートガイネフィリアは、確かなことは言えないが、おそらく稀なものである。しかし、性転換を求める男性の間では、よく見られることである。実際、アメリカを含む近年の欧米諸国では、男性から女性への性転換の症例のうち、少なくとも75%をオートガイネフィリアが占めている。

・しかし、オートガイネフィリア型性別違和に典型的な経歴を持つ多くの声高なトランスジェンダー活動家は、親や立法者、臨床医に容赦なく圧力をかけ、性別違和を抱える子どものタイプを区別しないことを黙認させ、そのための法律、治療法を求めている。さらに、彼らは自らの体験に基づく内部知識を主張することも少なくない。しかし、彼らの経験は、彼らにない2つのタイプの性別違和とは無関係なのだ。しかも、オートガイネフィリアに関しては、これらトランスジェンダー活動家はほぼ全員が否認している。つまり、公にされる彼らの体験の記憶は、歪曲されたものであるか、まったくの嘘であるかのどちらかである。注目すべき例外は、性別違和の重要な研究者となったアン・ローレンス博士で、彼は自分のオートガイネフィリアについて率直でかつオープンにしている。ローレンス博士は、異なるタイプの性別違和に関する科学文献を時間をかけて学び、自分の個人的な経験が非オートガイネフィリアの性別違和に当てはまると主張することはない。オートガイネフィリアを否認している人が、物語を一つにしようとすることで、最大の犠牲者となっているのは、実際、他のオートガイネフィリアの男性である。

 

⚫︎クィーンになろうとする男  マイケル・ベイリー

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アメリカで絶版になった(「TRA」の批判でキャンセルされた)マイケル・ベイリー著『The Man Who Would Be Queen』所収のあとがきの翻訳、転載。「あとがき」とあるがところどころ「ベイリーは〜」という文言があるので、他者による解説だと思われる。オートガイネフィリアは終わりの方に登場する。

・人生の半ばを過ぎ、妻子もあり、社会的地位もある男性が、「実は昔から心は女性だったのだ」とカミングアウトして、メディアの注目を集めることがあるが、彼らはオートガイネフィリアだったのだ。たいていの場合、思春期に女性の下着を身につけて性的興奮を覚え、自慰をすることからオートガイネフィリアが始まるらしい。当然、親には内緒でやるので長い間気づかれることはないだろう(しかし、最近では、性別違和があると10代で宣言するオートガイネフィリアの男の子もいるようである)

・しかし、オートガイネフィリアとは、「男性の身体に閉じ込められた女性」ではない。内科医で性科学研究者であり、自身も手術済みのトランスセクシュアルであるアン・ローレンスは、彼らを「男性の身体に閉じ込められた男性」と呼んでいる。実際、オートガイネフィリアは、(女らしい)同性愛型トランスセクシュアルと比べると、明らかに「男らしい」のである。彼らが女らしく見えるためには、かなりの努力が必要となる。
・オートガイネフィリアは異性愛の一種であるが、正確には、「非同性愛型」のトランスセクシュアルがオートガイネフィリアである。異性愛者だけでなく、バイセクシュアル、アセクシュアルのオートガイネフィリアもオートガイネフィリアである。つまり、彼らが最も魅かれるのは、彼らがなるであろう女性(女性としての自分)だということだ。

 

⚫︎オートガイネフィリア再考:Men Trapped in Men’s Bodies: Narratives of Autogynephilic Transsexualism - 前提的問題について

オートガイネフィリア再考:Men Trapped in Men’s Bodies: Narratives of Autogynephilic Transsexualism - 前提的問題について

アン・A・ローレンスの著書、Men Trapped in Men’s Bodies: Narratives of Autogynephilic Transsexualism (Springer, 2013) から。

・同性愛的MtFトランスセクシュアルは極度に女性的な同性愛の男性であり、男性を引き付けるために自らを女性化する。それに対して、非同性愛的MtFトランスセクシュアルは、自分が女性になるという考えに性的に興奮する―—すなわち、オートガイネフィリアである―—ために、性的興奮を求めて女性になることを望む。それゆえに、非同性愛的MtFトランスセクシュアルは女性を性愛の対象として(ただし女性の他人ではなく女性になった自分を)指向する異性愛の男性であると考えられる。

・よって、MtFトランスセクシュアルを説明するものとしてよく知られている「男の身体に囚われた女women trapped in men’s bodies」という表現は、同性愛的MtFトランスセクシュアルには当てはまるが、非同性愛的MtFトランスセクシュアルには当てはまらない(1−2)。

 

以上のサイトのうち一つ目と二つ目は、いわゆる「TERF」の立場の人のものだ。Xも全体として、「TERF」の人々がトランス女性と関連づけるかたちでオートガイネフィリアに言及している傾向がある。「TRA」やアライの人は概ねそうしたネット上の発言について、不正確かデマであるという否定的態度をとっている。

 

他に、当事者かおそらく当事者に近い人によるこのような記事も見つけた。

mixi.jp

ブランチャードらのオートガイネフィリアの記述と重なるところもあれば、異なるところもある。

 

Xでは、以上のようなオートガイネフィリアの理論を否定する以下のような情報を頂いた。

 

これに関して、別の方が以下の情報を投稿した。

 

上記のリンク先に示されていた自動翻訳の和文。

ブランチャードの理論で議論となっているのは、オートガイネフィリアが非アンドロフィリックなMtF性転換者の中心的動機であるのに対し、アンドロフィリックな者には存在しないという理論と、オートガイネフィリアをパラフィリアとして特徴づけることである。ブランチャードは、これらの理論の正確さを解決するにはさらなる実証的研究が必要であると書いている。
一方、トランスフェミニストのジュリア・セラーノなど他の者は、これらの理論は誤りであると主張している。

(注:ここから↓ジュリア・セラーノの主張。自動翻訳で硬いところを少し修正)

数十年にわたり、「オートガイネフィリア」は、科学/精神医学の文献で性的指向と性別違和や性転換の原因として説明されてきた歴史があります。いずれも当てはまらないため、この用語をこのような方法で使い続けることは誤解を招くでしょう。
同様に長い歴史において、「オートガイネフィリア」は「男性」特有の現象および性的倒錯として説明されてきました。これらの概念は相互に関連しており、(精神医学の教義によれば)性的倒錯は女性には非常にまれであるか、まったく存在しないとされています。しかし、最近の研究では、多くのシスジェンダーの女性(最大93%)が「自分自身を女性として自覚する、またはイメージすることで性的興奮を覚える」経験をしていることが示されています。したがって、多くの女性/女性的アイデンティティを持つ人々が経験する比較的一般的な(そして非病理的な)性的嗜好や空想を説明するために、パラフィリアや「エロティックな異常」(ブランチャードの呼び方)と非常に密接に関連している用語をもはや使用すべきではありません。
「オートガイネフィリア」(科学/精神医学文献で定義されている)は、トランス女性を「性的に逸脱した男性」として概念化しており、したがってトランスジェンダーのアイデンティティに不必要に汚名を着せ、無効にしています。まさにこの理由から、「オートガイネフィリア」の概念は、反トランスジェンダーのイデオロギーや政治的アジェンダを推進する一般の人々によってますます盗用されてきました。
これらの理由から、私はレビューで、誤解を招き汚名を着せるラベル「オートガイネフィリア」を、より包括的(そして病理的ではない)用語である女性/女性性具現化ファンタジー(FEF)に置き換えるべきだと主張しました。

 

というわけで、FEF(Feminine Embodiment Fantasy)について日本語のテキストがないか検索してみたが見当たらず、このページに行き着いた。トランス女性と思われる人の投稿である。

https://www.reddit.com/r/MtF/comments/ovpu4p/femalefeminine_embodiment_fantasies_fefs/?rdt=48219

一部を和訳してみた(ニュアンスが伝わっているかはわからない)。

ジュリア・セラーノは、オートガイネフィリアを再定義した際、FEF を「私たち自身の(現実あるいは想像上の)女性の身体または女性的なジェンダー表現の一側面が、ファンタジーの中で中心となるエロティックな役割を果たす(ただし想像上のパートナーなど他のエロティックな要素もファンタジーに存在する可能性がある)」と説明した。私はこの定義に賛同する。彼女はまた、この現象はトランスジェンダーの経験の一つかもしれないし、違うかもしれないと述べた。これは興味深い観点である。なぜなら、さまざまな理由から自分がトランスジェンダーとは思わない、またはまだ思っていないにせよ、こうしたファンタジーを持つ人々がいることがわかっているからである。

オートガイネフィリアは、男性だけでなく女性(トランス女性を含む)にも当てはまるのだ‥‥ということで、トランスフェミニスト、ジュリア・セラーノの提唱するFEFに賛同する内容になっている。後半では、性別を本質主義(生物学に依拠する)で捉える政治勢力への批判が展開され、オートガイネフィリアは異常でも病疾でもないと主張されているようだ。おそらくその主張のためにも、オートガイネフィリアをFEFという女性(トランス女性を含む)を中心とするより大きなカテゴリーに包括することが必要だったのだと思われる。

元のオートガイネフィリアの研究自体も、まだ完全に解き明かされ完成されてはいないという印象を受けるが、一般概念としては定着してきている。だがその「政治的効果」がトランスライツの活動にとってマイナスと考える人々によって、別の角度から研究が進められ概念の更新がされた。これ以後、オートガイネフィリアの解釈をめぐり、レイ・ブランチャードらを支持する「TERF」とジュリア・セラーノらを支持する「TRA」が対立していると考えられる。

 

アメリカではかなり前に、この概念を巡って大きなトラブル(出版のキャンセル騒ぎ)が起こっていた。

⚫︎「学問的な批判」は、いかにして「誹謗中傷」「いじめ」に堕すか? 研究者たちの経験から見えること 
ベンジャミン・クリッツァー

https://www.reddit.com/r/MtF/comments/ovpu4p/femalefeminine_embodiment_fantasies_fefs/?rdt=48219

2003年に『クイーンになる男――ジェンダー変更とトランスセクシュアルの科学(The Man Who Would Be Queen: The Science of Gender-Bending and Transsexualism)』を出版したことが原因で、ベイリーはトランスジェンダーの権利活動家から多大な非難を受けることになった。

 

LGBTのうちのレズビアン、ゲイ、バイセクシュアルはそれぞれ性的指向(欲望のかたち)を表しているが、最後のトランスジェンダーだけは性自認に焦点化した言葉である。しかしブランチャードのオートガイネフィリアの理論において、オートガイネフィリアからトランス女性への移行というケースがあることが指摘され、それはトランスジェンダーの性的指向(欲望のかたち)に目を向けさせる結果ともなった。

オートガイネフィリア自体に犯罪性はない。ただ、それと疑われる人の女性スペースでの振る舞いがX上に投稿されている。その人がトランス女性かオートガイネフィリアかその両方かまた別のものかはわからない。だがそこに敏感な「TERF」は反応する。一方、トランス女性と関連づけてオートガイネフィリアに言及すること自体が、「TRA」及びトランス当事者から見れば「トランス差別」である。

こうしてX上で、オートガイネフィリアは「TRA」と「TERF」の戦争の中核に投げ込まれている。

 

異色の”セカンドレイプ”告発映画『プロミシング・ヤングウーマン』

「映画は世界を映してる」第七回が公開されています。今回はエメラルド・フェネル監督、キャリー・マリガン主演の『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020)を取り上げてます(おおまかなストーリーに言及しています)。

 

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告発系の映画はちょっと苦手という人にもおすすめしたい異色作。加害者のみならず、それを放置したり被害を軽く見たりした周囲の男女にスポットを当てています。
ドラマでは被害者は既に亡くなっており、その親友の女性が主人公。一種の復讐譚ですが、それを超えた深さを感じさせるのは、ひとえに脚本の秀逸さによるものでしょう。
映像はスタイリッシュで、主人公を情緒的な共感視点では描いていない点も良く、一筋縄ではいかない展開はサスペンスフルで細部にも無駄がありません。

スッキリ!という後味ではないところも、非常に評価できると思います。
キャリー・マリガン、すごくいいです。

1973年に予告された悪夢の未来『ソイレント・グリーン』

いつもより遅めの更新です。
「映画は世界を映してる」第7回は、デジタルリマスター版が公開され話題の、往年のSF映画の傑作『ソイレント・グリーン』(リチャード・フライシャー監督)を取り上げてます。

 

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都市化にともなう自然破壊や公害問題、人口の爆発的増加など「人類の未来」に対して暗い予測と警告が出始めた1960年代末から1970年代を象徴するような作品。

 

以下、本文より。

50年前にここで描かれた、食料に関するもっとも残酷でおぞましい未来は、幸いなことに到来していない。人口増加の伸び率も、近年少し落ちてきたというデータがある。むしろ今後深刻な問題になるのは、気候変動による地球規模の災害だろう。

一方で、人工肉の開発・研究が進み、さまざまな合成食品が出回り、「食」が溢れた都市でも飢えた子どもや餓死者が出る現代、「ソイレント・グリーン」の悪夢の何割かは、足元に忍び寄っていると言える。この作品で興味深いのは、テーマもさることながら、1973年当時に想像された2022年の社会のさまざまな設定だ。

 

公開当時のイラストを用いたビジュアル (C) 2024 WBEI.

昔の映画のポスターのドラマチックなイラストがいい。

配信で見られます。是非!

心臓の鼓動はヒトより早いからそのうち君は年下になる

 

 

飼い犬タロになっているつもりで詠む「犬短歌」、2024年上半期の歌です。今年は急に慌ただしくなり、タロの歌心とゆっくりつきあっている時間が取れていなくて、やや少なめです。
まあまあのも今ひとつのも全部上げました。気に入ってる歌の最後には*マークをつけてます(/サキコとあるのは私名義の歌)。俳句も混じってます。

 

◆一月

滅びたくないよねけれど転ぶのは仕方ないんだまた立てばいい

恐竜の末裔 百舌鳥の速贄になりて脚指冬空を掻く

飛行機は乗らない代わり地震では瓦礫の下の君を見つける

山茶花の下は血溜まり粥を食う  *

三日月夜 星を数えるあのひとと地球の匂い嗅いでる俺と

鏡見たことはないけど飼い主を信じるきっと俺は可愛い

飼い主が自治会長になったのでやったね犬の会長やれる

雨の日の草は美味いよできるならササミの味の草も食べたい

バーベキュー味のポテチは邪道だと言う人カニカマサラダを作る

♪ 塀の下掘っていたらば真っ黄いに錆びたノコギリどこのどいつが

おばさんは俺がいるから強いのかでも弱いよね俺は強いよ

まず鼻でご挨拶して次は尻 順番守りなさい若い子よ

お手紙でニンゲン扱いされてたよ「タロにもよろしくお伝えください。」  *

寒くない?寒くないわよおじさんは?おじさん言うのヤメテクダサイ

三毛猫の模様のような謎残し指名手配の人が死んだ日

おばさんが言われたいのは「おめでとう」ではなく「六十五には見えない」

プロフィール画像が10年近く前なのは詐欺には当たらないのか

五十年隠れて死んだ容疑者の記憶は笑う青年のまま

 

◆二月

年の数食べたらお腹壊すから撒かないのよと豆を煮る人

おばさんが一番旨いとこを食べ千切った皮だけもらう肉饅

枯れ草に寝転び鼻の日光浴やってごらんよ気持ちいいから

見ていると映っているは異なると犬の瞳を覗き知る人

もうここで死んでもいいと老猫の居座る場所の陽の温とさよ  *  

もし空が割れて落ちても柴犬のシッポの先から春は始まる  

雨よ降れいいひと連れて来いという歌があるのでいい犬を待つ  

うずくまる猫かと見れば可燃ゴミ袋のひとつ雨に濡れたり  *

あの人と感じる世界は違っても並んで歩くパラレルワールド

犬たちが休戦協定結んでる夕暮れ時の待合室で

 

◆三月

自治会の仕事をやってもらうには会議でおやつを出せばよろしい

おばさんは頭痛や腹痛だけでなく年柄年中財布が痛い

園庭の子らの歓声春色の飴玉になり空に転がる

人間は不思議だ顎を撫でられて馬鹿にされたと感じるらしい

三日月を眺めるために大の字になったんですねコケたんじゃなく

まだ起きていろと夜風がささやいて土がざわめく草がさざめく  *

差し入れの菓子の包みをひらく音 母の強張りとけてゆく音/サキコ

春の夜は湿気たビスケットの匂いさせて四つ足どもがまぐわう  *

中年の犬の匂いをカプセルに詰めて売ろかな犬フェチ向けに

 

◆四月

初家出した夜泊まった警察署迎えにきたの遅かったよね

草うまし君はそこらで寝転んでいるか歌でも歌っていなよ  *

あの黒いビニール袋は黒猫が化けているのだそのうち鳴くぞ

酒を飲む人にねだるは旨そうなつまみなんだよおやつではない

世間では「虎に翼」が人気だが「犬にプロペラ」いかがだろうか

あのひとの心の荒地掃き清め俺の足跡つけて仕上げる

髪切ったんだねと言われなくなって身軽になって夏よ来い来い/サキコ  *

世話をして咲かせた花も野の花も花は花だよ俺は犬だよ

 

◆五月

庭で肉焼いてる匂い漂って心乱れる連休の午後

われわれに「こいぬの日」などないけれど鯉のぼりと空泳ぐ夢みる  *

なぜパンにジェリーが混入してたのかトムがいたずらしたんじゃないか

俺の顔しか出てこないまじないをおまえのスマホにかけてやろうか

あのひとの胸の小さいブローチに光った犬がいるあれは俺

おばさんは六十五歳俺は十ずっと友達だったじゃないか

年齢差性差を超えて永遠の友になれるは人間と犬

心臓の鼓動はヒトより早いからそのうち君は年下になる  *

朝ドラの戦死の人を悼む声溢れる月曜日のツイッター

朝ドラは涙なみだで外は雨お散歩行こかの声もかからず

 

◆六月

六月の光の中に飛び出してひとりでマチスのダンスを踊る  *

蜘蛛が巣をかけるポストにご逝去の回覧板をそっと差し込む/サキコ

あの老犬この頃見ないどうしたの死んだの回覧板は来ないの

犬だけの消防団に参加して仔犬助けて表彰されたい

火事の跡みなでオシッコ掛けまくり任務を果たす犬消防団

死ぬ前に思いたいこと「コーヒーの紙フィルターを買っとかなくちゃ」/サキコ  *

死ぬ前のことなど犬は考えない生きることしか考えてない

毒を持つ葉を茂らせて紫陽花は初夏の夕暮れ涼しい顔で

ノンポリの犬などいない犬ならば犬至上主義者に決まってる

あのひとが徘徊老人になったら俺も一緒に徘徊したい

飼い主よ俺の政見放送で手話をやるのはおまえの役目

 

これまでの歌です。

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様式美と現代的モチーフの合体『声/姿なき犯罪者』

「映画は世界を映してる」第5回は、クライムアクションに振り込め詐欺という現代的なテーマを絡ませた韓国映画『声/姿なき犯罪者』(キム・ソン&キム・ゴク監督、2021)を取り上げてます。

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スピード感のあるエンタメ作品。わりと定石通りの展開で、ヒーローはヒーローらしく悪党は悪党らしく描かれていますが、こういうシリアスなモチーフでも、ところどころにちゃんと笑いを入れてくるところが、韓国映画らしいと思います。オチもなるほど。

テキストでは後半「色彩」に注目してみました。ドラマが定型に則ってるように、色彩の使い方もわかりやすく、様式美すら感じさせます。

 

ところで、食料危機の未来を描いたSF『ソイレント・グリーン』(リチャード・フライシャー監督、1973)がデジタル・リマスター版で公開されたそうなので、次回はこれを扱いたいな。未見の方は是非。AmazonPrimeVideoで配信しています。

日本とクルドの間で‥‥『マイスモールランド』

お知らせ、遅くなりました。

「映画は世界を映してる」第4回は、埼玉県川口市に住まうクルド難民の家族を見つめた『マイスモールランド』(川和田恵真監督、2022)を取り上げています。

 

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国家を持たないクルド人のトルコでの分離独立闘争、難民化という、私たちにとっては「遠い出来事」が、幼少時に来日したクルド人家族の少女と日本人の少年との一見どこにでもあるような淡い恋に、次第に重い影を落としていくさまが描かれています。
在日クルド人の難しい立場を浮かび上がらせつつ、対立項だけに捉われない視野を提供してくれる佳作です。

もちろん、昨年あたりから特に激しくなってきた川口市市民とクルド人との軋轢、それを巡る意見や立場の対立についても冒頭で書いており、作品では「加害するクルド人」が描かれてないことにも言及してます。その点で、周辺状況への客観性は保っているつもりですが、それでも昨今の状況から、クルド人への理解を促すようなこうした作品を取り上げること自体に反発、批判はあるかもしれません。

 

題材が題材だけに政治的文脈から逃れることはできませんが、それをあえて一旦置いてこの作品を見ると、まず秀逸な青春映画になっていると思います。
在日クルド人の高校生を演じた嵐莉菜の存在感もさることながら、相手役の奥平大兼のナチュラルな演技がとても良い。二人の間の繊細でみずみずしい空気が手に取るように伝わってきます。

ちなみに嵐莉菜は、母親が日本人とドイツ人のハーフ、父親はイラクやロシアにルーツを持つ元イラン人(日本国籍を取得している)で、この作品ではその実の父、妹、弟が「家族」として共演しています。