雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

ポータルとブラウザの終焉

大学が決まってライター駆け出しの頃、最初に書いた記事は98 Magazineのコラムで、IE 3.0とブラウザ戦争の足音を告げるものだった。当時はNetscapeの優勢を疑う者はおらず、時代を先取りする記事だったと今も自負している。今年2月でNetscapeブラウザのサポートが終わり、年初からYahoo! Japanのリニューアルでトップからディレクトリが消え、ひとつの時代が終わったと実感した。
気付いたらブラウザもポータルもコモディティ化してしまった。素人目にYahoo!とNiftyとMSNのトップページを見比べても違いは分からない。世界で最も成功しているYahoo! Japanが、どうして好調とはいい難い米Yahoo!のデザインを追っかけなければならないか理解に苦しむが、もはやポータルは将来へ向けた競争領域ではなく、トラフィックを少しでもマネタイズするために広告スペースを大きくすることの方が重要なのだろうか。
ところでブラウザとポータルを並べたのには理由がある。多くの人は忘れてしまったかも知れないし、Wikipediaをみても歴史は載っていなかったんだけど、もともとポータルサイトという概念は、ブラウザでIEに追われてシェアを落とし、無償のApacheがSSLをサポートしたことで高額なSSL Webサーバーの販売という収益モデルを断たれたNetscapeの経営を建て直すため、Netscapeブラウザを立ち上げたときに表示されるホームページのページビューを、活かされていない経営資源として再発見したところから始まっている。残念なことにNetscapeはポータルサイトとして成功しなかったが、無事AOLに売り抜けることができた。そしてこのアイデアは大手検索サイトやISP各社を魅了することになる。
今も結構な数の企業がポータルサイトという概念に縛られたページ構成を取っているが、それが必ずしも成功しなかったことは、最大手のGoogleがポータル概念と真っ向から対立するシンプルなサイトで成功し、Live等もそれに追随していることからも明らかだ。結局のところ希少なのは画面スペースではなく利用者のアテンションで、ページの中でアテンションを分散させる幕の内弁当的なレイアウトは、インフォマーシャルへの誤配的なクリックから広告収入を得る土足マーケティングには有効でも、サイトの機能を利用者に印象づけ、頼ってもらうには向かないということか。
これは同僚の社会学者から聞いた話なので定かじゃないけれども、最近の学生ってコミュニケーションはケータイで事足りていて、そもそもネットを使うという発想はないらしい。けれどもニコニコ動画はみているらしく、それは彼らの頭の中で、ネット上のニコニコ動画というサイトではなくて、いきなりニコニコ動画なのだ。メールからURLを叩いたり、ブラウザの検索窓から入ったり、ともかく最初からニコニコ動画を使っているのであって、それがインターネット上のサイトであるとか、表示しているソフトをブラウザというのだとか、そういった意識は全くないらしい。技術屋としては脱力してしまうところだが、それはそれで健全という気がする。空気のように意識しないで使えれば、それに超したことはないのだ。
親から持たされたケータイで学校裏サイトとかモバゲータウンから入って、後から2chやニコ動のようにPCを使った方が便利なことはPCでという子たちの行動特性は、子供にケータイを持たせる日本独特のものだ。米国ではまだ日本ほど子供にケータイを持たせていないし、大学でFacebookデビューとか、Live Messengerやtwitterで繋がりっぱなし的な世界もあるのだろう。
どちらにしてもネットが空気のような世界ではポータルが主戦場でなくなっていて、シンプルな単機能サービスと、生活密着性の高いソーシャルサービスとに二極化していく。そして画面構成は大きく異なれど、どちらも利用者のアテンションを利用者にとって本当に必要な情報に割くことで、信頼と依存を勝ち取ろうという魂胆は共通しているのだ。
利用者にとって関心のないことを排除しなければならない。そのためにはGoogleのようにページの機能そのもの以外を徹底的に省くか、mixiやFacebookといったSNSのように、利用者にとって関心のありそうな事柄だけでページを埋めるくらい利用者について深く知らなければならない。携帯電話やカーナビのようにパソコン以上に画面の小さなプラットフォームでは、いまのWebサイト以上に、利用者視点で情報を取捨選択する技術が勝敗を左右することになるだろう。GadgetとかPodcastingとかARとかも、そういった観点から情報の重要度に応じた控えめのアテンションという観点で捉え直してみると面白い。
国内で今も圧倒的な影響力を持つYahoo! Japanが、トップページのレイアウトで時代に日和ったことは、"Portal doesn't matter"という積極的な意味合いよりは、彼らの手詰まり感を反映しているのかも知れない。ただ彼らの輝かしい業績は旧態依然としたトップページ構成の独自性よりは、トップシェアを誇るオークションや数ある魅力的な日本で開発されたサービスに支えられているのだろうから、トップページの刷新も気張ることのない自然な選択であったのかも知れない。
図らずもYahoo! Japanのトップページ刷新はディレクトリの終焉だけでなく、ポータルそのもののコモディティ化を印象付けた。そしてポータルのコモディティ化は、ブラウザのコモディティ化とも強く結び付いている。ブラウザという矩形スペースでの陣取り合戦は時代遅れとなって、もっと本質的な利用者の注意を惹く度合いをファインチューニングすることが求められるようになった。ポータル発想の幕の内弁当式レイアウトは、アテンションを叩き売っている点で決定的に時代遅れなのだ。
その点でシンプルに徹するグーグルのレイアウトはパラダイムシフトを先取りしたが、iGoogleでカスタマイズ型のサイトを展開していることは、彼らもなお次の展開を悩んでいることを示唆している。自分好みにサイトをカスタマイズできる利用者は、ほんの一握りに過ぎない。カスタマイズ機能を提供することは、CGM的に利用者ニーズを把握することには繋がるけれども、それ自体がマスから受け入れられることは期待しがたい。あくまで過渡的なテストマーケティングと考えた方がいい。それ自体としてアテンションを管理しつつアプリケーションの開発と流通を支援する仕組みをつくったFacebookは先を行っているが、これが本当に使いやすいかというと判断し難い。友人が試したアプリケーションを勧められる度に、土足マーケティングと感じることもある。
ポータルやブラウザの亡霊は暫くネット上に留まるにしても、主戦場は移りつつあって、そこでは利用者を中心にアテンションを管理するというパラダイムシフトや、ケータイ世代によるPCパッシングが起こっている。ガジェットやFacebookアプリといったプログラマビリティは、ブラウザという矩形の枠を超えるとともに、エコシステム形成とテストマーケティングの役割を担いつつある。これらの動きは未だ過渡的で、誰もが自分の強みを敷衍して勝ち抜こうとしているが、本当に何が大事かということは、まだ誰にも分かっていないのではないか。一方で重要でなさそうな領域については、時代を追いつつも差別化からマネタイズへのシフトが進んでいるようだ。