【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】
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この記事は、専門家としてではなく、個人的な感想・意見です。しかも、意見はまとまっておらず、いろいろな観点を列挙しています。
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2017年11月22日、およそ、「コンビニエンスストアの ミニストップ が成人向け雑誌を扱わないことにした(12月から千葉市内、1月から全国で)。さらに、ミニストップの親会社にあたるイオングループ全体で同様な方針をとることになった」という趣旨のニュースが流れた。
「すくすく。(@ScreamoTAI)」さんの11月22日のツイート [1] [2]によると、上記の事態に至るまでの経過は、(表現はわたしが少し変えたが、およそ)「まず2月から、千葉市がコンビニの成人誌コーナーの目隠しの実験を行なったが、コンビニ各社は続けられないという判断をした。しかしミニストップは逆に、成人誌目隠しだけではなく、千葉市全店舗の成人誌コーナーを撤去すると発表した。」というものだそうだ。
この件は、たくさんの軸を含む問題がからんでいると思う。どうすることが解決になるのかよくわからない。ここではひとまず、どんな軸があるかを書きだしてみようと思う。
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ここで規制される対象は何か。イオンという会社がこれから取り扱いをやめようとしているものの範囲が公開情報ではよくわからないのでいろいろな不安が広がっているという問題もあるが、ここではイオンの件ではなく一般論で考えてみたい。
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いわゆる「成人向け」の出版物は、だいたい、性に関する内容を含むものと、暴力に関する内容を含むものからなっていると思う。性に関する部分が、俗にいう「エロ本」である。(かつて「エロ」が話題になりはじめたころの流行語に「エロ・グロ・ナンセンス」というものがあった。しかしそれが規制されているわけではないだろう。グロテスクと暴力は部分的にかさなるが同じではない。ナンセンスが意識的に規制されることもないだろう。)
「成人向け」という規制は「子どもが見るところに置かない」という形をとる。しかし、実際にどのような形でそれを実現するかも問題だ。その内わけはあとで考える。
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性に関するもの、といっても、異質な判断基準がある。(大きく分けてみたが、ここで便宜上同じ項目内にならべたものも、同質とは限らない。)
- 1. 性器あるいは性行為の描写を含むもの。
- 2. 性欲をそそるもの。
- 3. 性暴力やセクシュアルハラスメントや性差別にあたる行為の描写を含み、その行為への明確な批判を含まないので、その行為を肯定する態度への誘導を与えがちなもの。
いわゆる「エロ本規制」の正面の対象は、2で、正面の趣旨は「子どもに見せるな」だ。それに加えて「おとなも性欲をそそられるとき・ところを限定したい」ということもあるかもしれない。
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しかし、現実には(2の客観的基準がつくりにくいので代理基準だったのだと思うが) 1の規制になりがちだと思う。しかし、しっかりした性教育をすることが、望まない妊娠や性感染症の予防など、子どものためになるという立場から、1は、むしろ積極的に見せるべきという考えもある。
鐙 麻樹 (2017-11-22) [ポルノではない「普通のセックス」をノルウェー国営放送局が放送]で紹介された番組は、まさにこの (2, 3でない) 1 を積極的に見せる例だと言えるだろう。
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2を規制してほしい人、してほしくない人の軸は、ほかの政治的価値観についての軸と一致しないことが多い。政治的保守派のうちにも革新派のうちにも、「エロ」を規制したがる人も、「エロ」の自由を主張する人もいる。
規制してほしくない人は「表現の自由」を根拠とすることが多いが、「表現の自由規制反対派」にもいろいろいる。「エロ本」の自由に敏感な人もいれば、政治的背景のある表現に敏感な人もいる。ヘイトスピーチを規制すべきという考えと表現の自由との兼ね合いの問題もある。
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ヘイトスピーチ規制と同様に、社会正義の立場から規制してほしい「性に関する出版物」があるとすれば、まず、3だろう。
社会正義として2の規制を求める理屈もあると思うが、それは、3の規制に近い発想だと思う。人が、性と関係ない用事のために行かなければならないところで、2にさらされると、自分の尊厳が侵害されたと感じる。環境型セク・ハラと言える。「エロ本」の多くは男の人向けなので、おもに女の人が不快感をもつ。理由は、(男の性欲をそそるものであることよりも)、男が女を征服しようとする態度への不快感が多いようだ。ときによっては自分も楽しむ人でも、とき・ところが適切でないときは不快、という人もいる。
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LGBT問題もある。たとえば、異性間の性愛は許すが同性愛は許さないという価値観が、販売者なり規制行政なりを支配すると、そういう規制がありうる。(この件については、わたしはこれ以上論じる材料を考えていない。)
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同じ主題であっても、実写か、絵か、文字による記述かによって、規制をちがえる可能性もある。(「3次元か2次元か」という言いかたもするが、3次元の人形の実写は2次元の絵と同類だろう。)
とくに児童ポルノの場合は、実写は、被写体となった本人の了解を得たとしても、未成年の人のabuse (「虐待」という日本語が適切かどうかわからないが)なので、悪いことだとされ、法改正で違法になった。しかし、未成年の人が出てくる性的な題材でも、絵ならば、実際の子どもをまきこんでいないので、違法ではない。(それを規制すべきかについては価値観の対立があると思う。わたしは、ゾーニングはすべきだが禁止すべきではないと思う。)
被写体がおとなのポルノは、本人の了解を得ていれば、違法でない。ただし、制作の場で、形式的には本人の了解があっても、権力関係によって人権を侵害していないか、という問題は残る。
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「子どもや見たくない人の目にふれないように」の期待にこたえる対策のうちでも、次の3つはちがう。
- a. 店頭に陳列はするが、目だたないようにすること (たとえば表紙の表題は見せるが絵は見せない)
- b. 店頭に陳列しないこと
- c. 販売しないこと
住民の期待にこたえるには、aかbでよかったはずだ。cでは、出版物の流通をせばめてしまう。わたしは、aかbの形をとりながら、(2節の3の意味で悪くないものは) 取り寄せ可能にすることが望ましいと思う。
ただし、民間企業にとっては、陳列しないが取り寄せには応じるという態度を維持するのは、費用のわりに収益が薄いので、やりたくないかもしれない。それを無理にやらせるわけにもいかないだろう。(もし公共の福祉のために必要となれば公共部門から補助するべきかもしれない。)
取り寄せるのに必要な心身の能力が不足する人が「エロ本」にアクセスする権利のために陳列を続けるべきだという意見も見かけた。もっともな面もあると思うが、社会としては、陳列を不快に思う人の立場とあわせて考量することになるので、「そういう人には取り寄せる能力のある人が手つだうことを奨励しよう」あたりが妥協点かと思う。
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今度のできごとでは、千葉市長が介在したが、行政としての直接の執行をさけて、イオンの自主判断を支持した。
表現の自由、出版の自由、人民の情報へのアクセス権などを重視する人びとのうちには、行政や政治による規制にならなかったのはよいことだ、という意見も見られるが、おもてに出ないでかげで影響力をもつのはかえって危険だ、という意見も見られた。
現在の千葉市長(熊谷さん)の実績のうちに朝鮮学校への補助金カットがあり、これは民族差別反対の立場から批判されている(わたしも不当だと思う)。熊谷さんが、朝鮮学校の件などで、排外主義を容認する傾向があるのはたしかだろう。その意味で警戒は必要だと思う。
しかし、熊谷さんは、(わたしは詳しいことは忘れたが)いわゆるリベラルの立場から支持される政策をとったこともある。安倍政権の一貫した支持者でもなさそうだ。「在特会」のような明確な排外主義者や、「日本会議」のような明確な(ある意味の)復古主義者とはちがうと思う。おそらく、世論(セロン)にうけることをやりたがるポピュリストであるとともに、資本の自由を重視する、いわゆる新自由主義傾向があるのだろう。今度の件で、住民の請願をとりあげたうえで、イオンという企業の自主性にまかせる態度をとったことも、この推測とつじつまが合う。
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このようなことに行政がかかわるのは、権力の恣意による規制に向かう危険がありうることはたしかだ。
しかし他方、行政あるいは政治には、民間の集団どうしの利害対立を調整するという役まわりもあるはずだ。むきだしの対立では、そのまま同じ状態が続くか、力関係で強いほうの意向がとおるか、になりがちだ。明示的に調停をするのは裁判所の役割だが、どちら側も裁判所への提訴に至らない段階で動けるのは行政か議員だろう。
熊谷さん特有の問題をはずして考えれば、コンビニを利用する市民の不満・要望に、コンビニ経営者がこたえられず、直接交渉では展望が開けないとき、市の行政が両者が納得できそうな解決策を提示する、というのは、よいことのような気がする。それが特定の政治信条にひっぱられず、だれかを排除することがなく、公共の利益になるようにすることを確実にするには、どのようなチェックを入れるべきか、という課題があると思う。