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科学報道の質を高めるために

2012年10月18日、iPS細胞の臨床応用に関する読売新聞ほかの報道が、自称研究者のうそを真に受けたものであるらしいとわかったところで、科学に関する報道の質が問題になっていた。その中で、日経サイエンス記者の古田彩(ayafuruta)さんがTwitterで一連の発言をしていた。taretareさんによって「科学報道を殺さないために−研究機関へお願い」としてまとめられている。

実はわたしはそのうちのひとつをretweetしていた。

大学と研究機関にお願い致します。記者が研究者に会うハードルを上げないで下さい。取材の度に広報の許可を取れなんて言われたら記事の質は下がり,誤報は増えます。いつでも議論し,疑問を持った瞬間に携帯に電話し,その場で話を聞く。それができる研究者が何人いるかで,科学記事の質は決まります。(ayafuruta 2012/10/18 00:28:19)

科学者側にいた者として、自分の発言が実際に報道される際に所属機関の広報担当の了解を得るというルールには納得できるとしても、報道関係者と話をするだけでも広報担当の了解を得なければならないのではきゅうくつでたまらない、そうなってほしくない、という思いから、わたしも「記者が研究者に会うハードルを上げないでください」と言いたかったのだった。

しかし、この一連の発言には賛否両論があって、否定意見にももっともなところがあると思った。Retweetしたメッセージは、受け取りかたによっては、横暴な行動の勧めになってしまうかもしれない。それで、わたしはretweetを取り消して、あらためてブログ記事で話題にすることにした。

その「賛否両論」の議論をもう少し明確に述べたものとして、PseuDoctorさん(ニセ科学問題に関心をもつ本物の医者)による2012年10月21日のブログ記事「科学報道に望むこと」がある。

「否」のほうから書く。研究者はたいてい忙しい。医学分野の研究者は医者でもあることが多く、患者を優先しなければならないこともある。記者からの突然の質問の相手をするのは仕事のじゃまになる。まず所属機関の広報担当に受けてもらって、広報担当が研究者本人に対応してもらったほうがよいと判断したものだけ研究者が対応する、というのが順当だ。

「賛」のほう。古田さんのように研鑽を積んでいる記者ならば、対象分野の基本的なことがらは自分で調べている。そして多くの研究者と信頼関係をもっている。疑問が生じたとき適切な専門家に適切な質問をすることができる。報道対象となる研究の当事者を長時間わずらわせなくても、その研究を評価できる別の人から取材することができる。そして研究発表の倫理もわきまえている。こういう人が広報担当をとびこえて専門家に質問することをさまたげることはない。

ただし、PseuDoctorさんは、記者は対象となる研究の論文を読むべきだという。それを理解できなくても、参考文献をさかのぼっていけば理解できるはずだという。古田さんが論文を「ながめる」ことしかできていないことが多いと言っているのには不満を示している。

わたしも、研究論文を理解して報道することが望ましいと思う。しかしそれはむずかしい。わたし自身、自分が所属している学会の研究論文でも、説明してもらわないと、「ながめる」程度にしか理解できないものがある。ただし、概略を理解できるまでに必要な説明の量は、専門外の人に比べれば少なくてすむと思う。学会誌に解説が書かれているとだいぶ助かる。

また、いわゆる温暖化懐疑論の議論には、研究論文を引用しているものがわりあい多い。マイクル・クライトンの日本語では「恐怖の存在」という題で出版されている本はフィクションではあるが参考文献は現実のものでありそのうちには査読済み論文も多い。しかしそれは明らかに温暖化懐疑論者が作ったリストからとられている。主流の気候研究者から見ると、些末な論文が重視されていたり、評価の定まった論文に違った解釈がされていたりする。

科学社会学者CollinsとEvansの「Rethinking Expertise」という本では、専門文献を読むことによって得られる知識と、専門の訓練を受けて得られる知識を区別している。専門家と相互作用的な会話をしないで専門文献を読んだだけでは、その文献の意義をとりちがえたままになっている可能性もあるという認識を含んでいるようだ。

専門の研究の内容を的確に伝えるためには、その分野の修士に相当する背景知識が必要なのだと思う。科学記者にとって、対象分野ごとに修士課程の訓練を受けることは非現実的だろう。しかし、ある分野の展望をもてれば、他の分野の展望をもてるまでの手間はだいぶ縮められると思う。

科学報道をよくするためにやるべきことは、記者が分野の展望を提供できる専門家と会う機会をふやすことだろうと思う。専門家がその分野を理解するために読むべき入門文献のリストを作ることももっと奨励するべきだろう。

文献

  • Harry COLLINS & Robert EVANS, 2007 (ペーパーバック 2009): Rethinking Expertise. University of Chicago Press, 159 pp. ISBN 978-0-226-11361-6 (pbk.). [読書ノート]
  • Michael CRICHTON, 2004: State of Fear. New York: HarperCollins, 603 pp. / 日本語版: マイクル・クライトン著, 酒井 昭伸 訳, (2005): 恐怖の存在 (上・下)早川書房。 [わたしは日本語版を読んでいない。] [読書ノート]