木走日記

場末の時事評論

「フランダースの犬」と野田民主党政権についての一考察

 1943年(昭和18年)5月12日、米軍は戦艦3、空母1、重巡3、軽巡3、駆逐艦12という艦隊支援のもとに、第七師団一万一千人がアッツ島に上陸を開始。孤立した離島に敵の大群を迎え撃つ日本軍は山崎保代陸軍大佐以下二千四百名、全員が死を決意し凄まじい戦いを繰り広げます。

 苦闘二週間余、大本営は悪化する南方戦線の戦局打開を優先すべくアッツ島を見捨てることに至ります。

 1943年(昭和18年)5月29日、アリューシャン列島アッツ島の日本軍守備隊がわずか29名の生存者を残し全滅いたします。 

 自分達が見捨てた結果の大敗北の事実、また「全滅」という言葉が国民に与える動揺、これらを隠ぺいし“玉の如くに清く砕け散った”と印象付けようと、「玉砕」という言葉が大本営によって第二次世界大戦の中で最初に報道発表に使われることになります。

 「玉砕」という言葉ですが、出典は『北斉書』元景安伝の「大丈夫寧可玉砕何能瓦全(立派な男子は潔く死ぬべきであり、瓦として無事に生き延びるより砕けても玉のほうがよい)」だそうです。

 1886年(明治19年)発表の軍歌「敵は幾萬」(山田美妙斎作詞・小山作之助作曲)にも詠われていますので、大本営が生み出したわけではなく、アッツ島敗北以前から日本では使われていたことが分かります。

敗れて逃ぐるは國の恥 進みて死ぬるは身のほまれ
瓦となりて殘るより 玉となりつつ砕けよや
畳の上にて死ぬ事は 武士のなすべき道ならず

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E7%A0%95

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 日本人の大好きなアニメに、画家を夢見る少年ネロと愛犬パトラッシュがクリスマスイブの夜にアントワープ大聖堂にて天に召される悲劇「フランダースの犬」があります。

 実はこの物語、原作は英国人作家ウィーダが1870年代に書いたのですが、欧州では、物語は「負け犬の死」としか映らず、評価されることはなかったそうです。

 米国では過去に5回映画化されているが、いずれもハッピーエンドに書き換えられたそうです。

 悲しい結末の原作がなぜ日本でのみ共感を集めたのかは、長く謎とされてきましたが、5年前になりますが、ベルギーで検証映画「パトラッシュ」(監督ディディエ・ボルカールト)が製作されます、ボルカールト氏は3年をかけて謎の解明を試み、資料発掘や、世界6か国での計100人を超えるインタビューの結果、ひとつの結論を得ます。

 ボルカールト氏は、世界で日本人だけが物語「フランダースの犬」を熱愛するのは、日本人の心に潜む「滅びの美学」によるもの、と結論します。

 当時の読売新聞記事を参考までに載せておきます(すでにリンクは切れています)。

「フランダースの犬」日本人だけ共感…ベルギーで検証映画

 【ブリュッセル=尾関航也】ベルギー北部フランドル(英名フランダース)地方在住のベルギー人映画監督が、クリスマスにちなんだ悲運の物語として日本で知られる「フランダースの犬」を“検証”するドキュメンタリー映画を作成した。
 物語の主人公ネロと忠犬パトラッシュが、クリスマスイブの夜に力尽きたアントワープの大聖堂で、27日に上映される。映画のタイトルは「パトラッシュ」で、監督はディディエ・ボルカールトさん(36)。制作のきっかけは、大聖堂でルーベンスの絵を見上げ、涙を流す日本人の姿を見たことだったという。
 物語では、画家を夢見る少年ネロが、放火のぬれぎぬを着せられて、村を追われ、吹雪の中をさまよった揚げ句、一度見たかったこの絵を目にする。そして誰を恨むこともなく、忠犬とともに天に召される。原作は英国人作家ウィーダが1870年代に書いたが、欧州では、物語は「負け犬の死」(ボルカールトさん)としか映らず、評価されることはなかった。米国では過去に5回映画化されているが、いずれもハッピーエンドに書き換えられた。悲しい結末の原作が、なぜ日本でのみ共感を集めたのかは、長く謎とされてきた。ボルカールトさんらは、3年をかけて謎の解明を試みた。資料発掘や、世界6か国での計100人を超えるインタビューで、浮かび上がったのは、日本人の心に潜む「滅びの美学」だった。
 プロデューサーのアン・バンディーンデレンさん(36)は「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけた。
 上映時間は1時間25分。使用言語は主にオランダ語で、日英の字幕付きDVDが今月からインターネットなどで販売されている。
(2007年12月25日11時39分 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20071225i302.htm

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 安倍晋三氏と野田首相の国会討論の模様をTV中継で見ていて、16日に解散するとの野田首相の堂々とした発言にある種の「覚悟を決めた迫力」を感じたのは私だけではありますまい。

 今総選挙をすれば民主党は大敗北することは誰が見ても明らかなはずなのに、野田首相は党内の反対を押し切り解散を「決断」したのです。

 メディアなどでは政治評論家が、「嘘つき呼ばわりに耐えれなかった」とか、「党内の野田降ろしの動きを封じるため」とか、いろいろな分析をしていますが、そのような分析を否定はしませんが、私はTVで野田首相の鬼気迫る国会答弁の態度を見て
、もしかして野田首相は日本人の大好きな「滅びの美学」にまさに心酔しているのか、ある種の恍惚感に浸っているのではないかと感じました。

 読売記事にある「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」(プロデューサーのアン・バンディーンデレン氏)の分析にぴったり自分自身をあてはめて酔っているのではないのか、と感じたのです。

 この国の未来のために自分の政治生命を掛けて国民に不人気の消費税増税法案を成立させることを成し遂げた充実感、その結果、総選挙で敗れようと「敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだ」しているのではないでしょうか。

 今、彼の胸中に民主党保身という党利党略はいっさいないのでしょう。

 ただ、野田首相が理解していないのは、野田さんや民主党に、パトラッシュやネロのような純粋さを国民はまったく感じていない、という悲しい事実です。

 国民の支持を失っている指導者が「滅びの美学」に心酔している組織の構成員ほど哀れな存在はないでしょう。

 総選挙で民主党は「玉砕」することでしょう。



(木走まさみず)