「怒らないで下さい」と彼女は言った

 何かと言えばすぐ差別だ差別だというアレの問題は、私も同感なのだが、北沢かえるの働けば自由になる日記←その日の出来事そのものは、お二方のお母さんどちらも、私はさほどに非難する気にはならない。なぜって、母親が咄嗟に「我が子を守るため瞬時に鬼と化す」のは、これは仕方ないだろう。誰が何と言おうが、我が子へのいきなりの攻撃に対しては身を張って阻止しようとする、咄嗟の行動。また、子にとっても「何があっても、お母さんだけは自分を守ってくれる」という安心感は、幼少の頃にはあったほうが良さそうだ。もちろんお二方ともエスカレートしてからの部分は「これでこそ良い」と言えるものでもないが、父親や第三者による、ことの内容の良し悪しその他の助言や苦言は、お二方の咄嗟の言動を責め立てることではないはず、と思う。まずは、お母さんどうしのこの種のぶつかり合いそのものには、母親という立場や感情に寛容であってほしい。次なる話は、どちらかを裁くとか、喧嘩両成敗とか、そういうことではなくて考えてみたい。


 かえるさんの怒り、これは実に真っ当なものであって、非難するようなことではない。言葉が過ぎた面については、何よりご本人が痛感しているところであって、暴言は暴言なのだが、こうしたことは生々しいその場のやり取りがあってのことである。暴言であったことは承知で、この話題に自分も「痛いニュース」として提供なさったのであって、記事の内容も真摯なものであり、私は彼女を糾弾する意見にはくみしない。そのうえで、私は先方のお母さんを糾弾する意見にも同調しない。それを書こう。


 かえるさんの怒りも、つまるところ「ひとことお詫びがあっていいんじゃない?」ということにつきるような気がする。それがなかったため、ここまで話がこじれてしまった、と。ただしかえるさんも言及していることだが、「なぜそのひとことが言えずに、こんな頑なな態度なんだろうか」ということで言えば、私はいくつかありえそうなことを考えてみた。


 ひとつには、その人の元からの性格だという可能性。「ごめんなさい、すいません」と咄嗟に言えない人、なかなか言おうとしない人…いますよね。そういう人なんじゃないか。つまり、実は、障害うんぬんとか差別うんぬんとか以前の問題。


 もうひとつは、ひとことでも謝ったが最後、「非を認めたな?どうしてくれるんだ」式の、あるいは「謝って済むとでも思っているのか?」式の、もっと謝罪汁さあ賠償汁という攻撃にあった体験があるため、過剰防御になっているのかもしれない。まして、障害児の親として、そんな目にだけは遭いたくない…よほどのことがない限り、ひとこと謝ろうという動機が極度にそがれているのかもしれない。


 または、普段は「うちの子がすいません、ごめんなさい」は言える人だし、実際にそう言う機会も多いのだが、この日、この時、たまたまこういうことになっちゃったという可能性。むちゃくちゃ疲れていて、あるいは子のことで何かあってすごく悲しいやら腹立たしいやら、公園で子を遊ばせながらボーっとorムシャクシャしていたところ、急にすごい剣幕で叱りつけている声を聞いて慌てて飛んできて…。


 さらには、かえるさんの罵声を受けて、先方はお詫びする気がなくなったという可能性。かえるさんが咄嗟に我が子を守るモードに入ったように、先方のお母さんも咄嗟に我が子を守るモードに入った、と。軽度の発達障碍の場合、「なぜそれが悪いことなのか、あるいは、それがやってはいけないことだと、理解できないわけではない。理解させる方法もある。しかし、いきなりきつく叱るのは逆効果」ということもある。大きな声を出されたことでパニックを起こしたりですね。それで、咄嗟に「あぁっ、叱らないで!」が先に口をついて出てきて、それを説明しようとしたら罵られて逆切れ…


 私自身は、この可能性がもっともありえそうだと感じた。なぜなら(かえるさんの記事から推測できることでしかないのだが)、この子の挙動が、どうも自閉症っぽいからである(自閉症には、重い知的障害があるとは限らない)。
*理由*
「パッと見たところ、何の障害があるのかわからない(普通の子に見える)」
「蹴飛ばした後、泣いてる相手に無関心」
「そのことでお互いの母親どうしが大喧嘩してるのに、どこかへ行ってしまった」
→その場所にあった邪魔なもの(かえるさんの娘さん)を蹴飛ばしてどかそうとした。
→どかせたので、目的は達成された。後のことには関心が無い。
→相手の子の気持ちやその子の母親、さらには自分の母親の気持ちといった、他者の感情をそれと知ることができない。関心を向けて理解できる範囲外。
→自分の起こした行為が他者の感情にどう反映するか、また、その感情を見てそれを自分の行動にフィードバックさせるという能力に欠ける、もしくは乏しい。いわゆる、社会性言語の欠如ないしは深刻な不足。
→大声が大の苦手。そのような音声からは遠ざかろうとする。


 したがって、他者の感情(あるいは「自分ではない他者」という認識)が理解できないということは、いわゆる「いじわる」で起こしている行動ではないということだ。「いじわる」というのは、自分のその行動によって相手に負の感情が起きることを知りつつ、だからこそ行うものだろう。自閉症児には(程度の差はあるが)、そうした認識能力そのものが全くないか、あっても乏しいため、「いじわる」をしてやろうという動機そのものがなかったり、また、「いじわる」が何であるかも理解できなかったりする。ひとことで言うと「共感性」、つまりここでは、他者の感情を我が身に置いて「自分がその人だったら、こう感じるだろう。だから、やめようと思う」という能力のことであるが、それが欠損ないしは不足しているのだ。


 このような傾向の子の場合、問題行動をやめさせるためにはいろいろな方法があるのだが(そして知的障碍の有無によってかなり異なるのだが)、怒り散らして叱りつけるのは効果がないばかりか極めて問題が多い。次のようなことがある。他者の感情を(ことに表出されたそれの意味を)知ることができないので、他者の強度に感情的なものには恐怖感しか覚えない。怒声が自分に向けられると(まして見知らぬ人からそれが来ると)、意味がわからないのと、どうしていいのかわからないのと、怖いのとで、パニックを起こす可能性がある。


 その子にパニックを起こされては、その後がすごく大変なのだ。最悪のケースを想定してみる。かえるさんがその子を大声で叱りつける。その子、逃げようとする。謝りもしないで逃げようとするので、かえるさん、その子をつかまえて更に叱責する。その子、パニックを起こす。錯乱して、自分の体を傷つけたりまだその場にいる娘さんに手をあげる(何が何だかわからなくなったので、恐怖を抱いて「恐怖の原因となったモノ」をなくそうとする)。…そうした可能性も、なきにしもあらず。つまり先方のお母さんは、我が子が予想外の突発的な自傷他害行動に出るのを防ぐためにも、まず何より先に、怒声を浴びせないでください、ということであった可能性も私は考えた。


 そのお子さんにこのような傾向があるのであれば、私には、先方のお母さんの咄嗟の行動も理解できる。実際にかえるさんの記事によれば、かえるさんに対して「怒らないでください」なのである。「障害者なんです。わからないんです。怒らないでください」という第一声から、かえるさんは「見逃してください」「ほっといてください」「そのまま受け入れてください」「この子が何をしても許してください」と言われたようにお感じになったようだ。しかし、そこまでの要望があるようだとは、私には読み取れなかった。


 だが、「怒らないでください」と彼女は言ったのだ。この言葉は、「大声で叱りつけないでください」なのか「立腹しないでください」なのか、わからない。私は前者だと思ったが(そう考えられる根拠は示したが)、かといって、その場面で(言われた母親が)後者だと受け止めたことを、私は非難できない。


 もちろんその辺のところは、かえるさんの記事から私が推測した先方の事情の推測であって、事実はどうなのかわからない。もちろん、かえるさんにもわからないだろう。したがって、この時の先方のお母さんの言動から、

障害を理解しなけりゃいかんのですよ。かの親子にしてみれば、それが社会全体に広がっていくことが当然ってことなのか、この当然がノーマライゼーションってことなのかな〜。

↑ここまで言えるかどうかは疑問だと感じる。もちろん、かえるさんが思ったような困った親御さんである可能性も否定できない。かえるさんも言葉を選び選びしつつの話題提供であるので、そうである可能性も想定しうる。だが、こればかりはその場にいたわけでもなく、当事者の片方の意見でしかない以上、「何とも言い切れませんなぁ」なのだ。そこで、かえるさんの意見を否定するのではないが、別の可能性を私は言及したいのであった。いや、かえるさんが「理解せねばならない」とは思わない。理解できるとも、思わない。理解できそうにないことを理解せねばならないなどと、そんな無茶な話は、ない。ただ…


 というのが、常にそういう感じの困った親御さんなのであれば、この親子が公園にいる時点で相当にギスギスした雰囲気であったり、ほかの親子はどこかへ行ってしまったりするんじゃないかと思う(だってすぐに危害行動を起こす子だとして、しかも何があっても許してくれみたいな親なのであれば、そんな親子の近くで遊んでられないでしょう)。しかし、大喧嘩が起きるまで他の親子は「周囲で、ほのぼの遊んでいた」ということは、そんなに問題のある親子だとも思えない。また、ほかの親御さんたちは、そのお母さんに代わってかえるさんに事情を話すわけでもなかったということだから、自閉症にすごく理解があるということでもなさそうだ。何となくどういう子であるかは知っているので「その子の周りで、誰も遊んでいなかった」のかもしれない。あくまで遠巻きに受け入れている、というか。


 でも、どうなんだろうか、私は典型的な地方都市の郊外に住んでいるので、地域コミュニティの濃さと言うものは良かれ悪しかれ実感するのだが、東京の住宅地の公園で、そんなに顔見知りの人たちばかりなのかな…と。だから、かえるさんが「遠征」して遠くの公園に行ったということだが、

あの親にしてみれば、この公園は、周囲の理解があって、“差別”を感じさせずに、自由に遊ばせられる安全地帯なんだろう。そこに飛び込んできた“差別主義者”なわけだ、私たちはw

と言い切れるほどの、濃密な地域コミュニティがあるんだかどうだか、私にはわからない。もしこの地域にも、そういう「誰それちゃん、誰それちゃんのパパママ…」という顔見知りの濃いコミュニティがあるとしたら、私には上記のように思える。その子の障碍についてさほどの理解があるわけでもなく、かといってさほどの偏見もなく、当たらず触らずの関係でしかないように思えるのだ。その場その場の処世術が流れていく日常、という。