法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『火垂るの墓』誰の犯した罪と罰。

野坂昭如自身の戦時体験を参考にした小説『火垂るの墓』は、1988年に高畑勲監督の手でアニメ映画化された。
戦時中の兵庫県を舞台にして、両親を失って親戚の家に同居することになった兄妹、清太と節子。しかし貧しい共同生活になじめず、ふたりで家を出て防空壕に住みつく。物資が欠乏するなかで終戦をむかえるも、それぞれ間もなく衰弱死した。
そうした一夏の記憶を、死者の回想として描いている。


この物語で兄妹が亡くなった原因について、定見がないまま親戚の家を飛び出した兄の責任を問う意見がある。そうでなくても、主人公の設定がかなり特殊なのではという指摘は多い。
もちろん、両親を死にいたらしめた戦争を始めたのが大人だとか、子供が愚行をおこなっても社会が保護するべきだとか、どれほど重い罪でも死ぬほどの罰が与えられるべきではないとか、そうした反論はいくらでもできる。
その上で、主人公の愚行にどのような意味があるのかを考えてみたい。


まずは盟友であり、ともにアニメ業界を歩んできた宮崎駿監督も、過去から清太の奇妙さを指摘している。
http://kamane.hatenablog.com/entry/20051109/p1

巡洋艦の艦長の息子は絶対に飢え死にしない。 それは戦争の本質をごまかしている。 それは野坂昭如が飢え死にしなかったように、絶対飢え死にしない。 海軍の士官というのは、確実に救済し合います、仲間同士だけで。……それは高畑勲がわかっていても、野坂昭如がウソをついているからしょうがないけれども。 戦争というのは、そういうかたちで出てくるものだと僕は思いますけどね。 だから、弾が当たって死ぬのもいるけれど、結局死ぬのは貧乏人が死ぬんですよ。

宮崎監督とは少し方向性が異なるが、高畑勲監督も清太が海軍大尉の子供らしくないと何度も語っていた。
『火垂るの墓』豆知識まとめ | 非公式スタジオジブリ ファンサイト【ジブリのせかい】 宮崎駿・高畑勲の最新情報

『火垂るの墓』の清太少年は、私には、まるで現代の少年がタイムスリップして、あの不幸な時代にまぎれこんでしまったように思えてならない。そしてほとんど必然としかいいようのない成行きで妹を死なせ、ひと月してみずからも死んでいく。
中学三年生といえば、予科練や陸軍幼年学校へ入ったり、少年兵になる子供もいた年齢である。
しかし、清太は海軍大尉の長男でありながら、全く軍国少年らしいところがない。空襲で家が焼けて、妹に「どないするのん?」と聞かれ、「お父ちゃん仇とってくれるて」としか答えられない。

清太のとったこのような行動や心のうごきは、物質的に恵まれ、快・不快を対人関係や行動や存在の大きな基準とし、わずらわしい人間関係をいとう現代の青年や子供たちとどこか似てないだろうか。いや、その子供たちと時代を共有する大人たちも同じである。

火垂るの墓 - 金曜ロードSHOW!

主人公の清太に、物質的に恵まれていて我慢することを知らない現代の子どもたちの姿との共通点を見出した高畑監督は、戦時中を自分なりに生きようとした真っ直ぐな清太の姿を、非常に共感度の高い人物像として描き出すことに成功した。

このように高畑監督は、清太を現代人のようだと指摘してきた。


『火垂るの墓』と同時期に、同じく戦時下に生きる兄妹を主人公にした、『うしろの正面だあれ』というアニメ映画がある。
うしろの正面だあれ – 虫プロダクション株式会社|アニメーション製作と作品版権管理
その原作小説は妹だった海老名香葉子の目線から、子供時代の記憶を忠実に記したものだった。アニメ化を手がけた有原誠治監督も、制作にあたって原作にない場面をつけくわえるため、原作者や兄から当時の証言を聞き取ったりした。自伝的でありつつも創作小説だった『火垂るの墓』とは方向性が違う。
その有原監督も、『火垂るの墓』の原作小説を読んだ印象を、下記のように書いている*1。

 偶然にも、私たちが『うしろの正面だあれ』の制作を準備している時に、『火垂るの墓』の制作がスタジオジブリでスタートしました。私には、とても気になることでしたので、それまで知らなかった野坂昭如氏の原作を読みました。とてもつらい話でした。あの作品の二人は、孤独と飢えの中で死んでしまいます。小さい妹は『うしろの正面だあれ』のかよちゃんよりずっと年下ですから、それを抱えて中学生のお兄ちゃんが生きていくというのは、とても大変なことだったろうと思います。
『火垂るの墓』を読んで感じたのは、この主人公たちの家族のあり方は、どこか、今の私たちの家族と良く似ているなということでした。お父さんは海軍の将校さんで、いつも軍務でお家にいません。今なら単身赴任です。お母さんは地域の人たちとフランクに付き合っているという気配がありません。それどころか、みんなが貧しい時代にこの家族には特別な物資があって、人目を忍んで生きているようなこともあります。だから、地域に根ざして生きている家族かどうかというと、かよちゃんの家族に比べれればとても希薄な存在に見えて、我々の家庭によく似ているなと思い、ゾッとしたことを覚えています。

当時としても特異な家庭環境にあったし、その環境で育った子供としても特異な清太。生きねばという強迫観念を持たないがゆえ、甘い見通しで妹を衰弱死させた清太。
戦後しばらくたって創作された小説ということも理由にあるだろう。このように当時とは異なる現代的な子供像を、ふたりのアニメ監督は見いだした。その印象をすくいとってアニメ化して、何が悪いのだろうか。


過去の時代を描く時、当時の平均的な人物を主人公にしても、必ずしも現代の観客に感情移入をうながせるわけではない。
たとえば、アメリカ大陸の西部開拓時代を描いた西部劇で、野蛮な「インディアン」を退治してまわるガンマンを主人公にして、現代の観客はためらわず感情移入できるだろうか。迫害される先住民によりそったり、協力や支援をおこなったりするような、当時としては珍しい人物が主人公でないと感情移入しにくいだろう。先住民と戦う物語であっても、せめて対等な人間とみなして戦うような主人公だったり、主人公の差別主義が現代の差別主義に通じていると示すような、少しひねった描写が必要になる。
同じことが、『うしろの正面だあれ』では逆の方向性にはたらいていた。有原監督は原作にある「幼いころの思い出は、わたしの大切な宝もの」という文章に注目し*2、子供の生きる力は何によってつちかわれるのかと考えながらアニメ化したことを語っている*3。苦難を生きぬいた子供の記憶や、失われた過去の風景は、現代の観客からすると感情移入より憧れの対象になりやすい。
現代人の目線だからこそ戦争を実感させることができるという意見は、作家の大塚英志氏ものべていた。映画『風立ちぬ』の公開にさいしてスタジオジブリがフリーペーパー『熱風』で憲法9条の重要性をうったえたことを受けての指摘だった*4。
宮崎駿「風立ちぬ」は「火垂るの墓」への回答 専門家が指摘 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

「熱風」でサブカルチャーの歴史について連載している批評家でまんが原作者の大塚英志さんは「ジブリは反原発を鮮明に打ち出すなど、モノを言うことに躊躇(ちゅうちょ)しない集団。特集は極めて自然」と話す。そのうえで宮崎監督作品と憲法9条との関係を解き明かす。

「『風立ちぬ』は、高畑監督の『火垂るの墓』への回答なんです」

 高畑作品は現代の子供があの時代に行ったらどう行動するかを想定して描かれている。対して、宮崎作品は戦闘や殺傷場面は描かない代わりに、主人公の青年が迫りくる戦争の足音を敏感に感じ取る場面を描くことで、戦争を想像する重要性を訴えていると指摘する。

なるほど、清太は愚かだったかもしれない。しかしそれは、戦場から遠ざかった場所にいると認識している観客が、安全な立場からいえる批判だ。
清太もまた、安全なつもりで行動していた。叔母の態度に不公平感をおぼえ、貧しくなる食生活にたえられず、まだしも兄妹のふたりぐらしが良いと考えて家を出たのだから。戦争がどのくらい長引くか、食糧がどのようにつきるかは、結末を知ってからいえること。


そして、実際に先の見えない状況におかれた人間が慎重に行動できるかどうか。それは歴史をふりかえり、兄妹を追いつめた戦争の発端を見れば、はっきりする。
日本は陰謀で満州事変をはじめて占領し、傀儡国家をつくりあげた。それを批判されると国際連盟を脱退した。中国が思いどおりにならないので、協力者を暗殺したり、首都まで侵攻したりした。その結果として経済制裁をされると、我慢できなくなって各国に対して戦端を開いた。戦争に反対する人々が圧殺された一方で、目先の戦勝に熱狂した人々も多かった。
こうして見ると、兄妹のふたりぐらしは、当時の日本と相似形を描いているように感じられる。清太が愚かだったというなら、それ以上に戦前の日本は愚かだった。


妹を死なせた罪を清太は背負い、罰せられるかのように死んだ。子供を死なせた罪を、当時の大人は背負っていただろうか。むしろ大人に向かうべき罰を子供にも負わせたのではないか。
さらにいえば、日本社会は清太の愚かさを批判できるほど、過去に犯した愚かさに向きあい、反省しているだろうか。高畑勲監督は先述の『熱風』において、下記のように提言していた*5。

 いまは、戦争末期の悲惨さではなく、あの戦争の開戦時を思い出す必要があると思います。それまで懐疑的だった人々も大多数の知識人も、戦争が始まってしまった以上、あとは日本が勝つことを願うしかないじゃないか、とこぞって為政者に協力しはじめたことを。

『火垂るの墓』は、清太と節子の幽霊が現代の街を見おろす場面で幕を引く。清太より愚かでないと、今の私たちは胸をはっていえるだろうか。

*1:『子どもたちに夢と平和を アニメーターからの手紙』45〜46頁。

*2:前掲書36頁。

*3:前掲書38頁。

*4:当時の私の感想はこちら。http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20130718/1374186225

*5:以前に公開されていたPDFファイルの22頁。