「アタリショック」観の変遷
「アタリショック」の嘘と誤解の反響が、予想以上に大きくて驚いています。ありがたいことなのですが、任天堂陰謀論みたいに捉えるのだけは勘弁してください。私は任天堂が情報をミスリードしたとは言っていません。少なくとも任天堂が調べ上げた情報がなければ、アタリと市場全体の崩壊を結びつけることはできなかった。そして結びつけても不思議ではない立場に、当時の任天堂はあった。それだけです。それ以上のことは、さらに資料を発掘しないと誰にも分かりません (私の推測を批判したいかたは、まずその発掘からお願いします。水掛け論になるだけなので)。
そもそも「アタリショック」の解釈が、人によって随分異なるようなので、これまで代表的な記事・書籍がこの言葉をどのように使ってきたのか、参考までに少しご紹介しておきましょう。
●「任天堂アメリカ, ソフト管理と消費者情報の収集で40億ドルの市場築く」『日経エレクトロニクス』1990.09.03 小林修 (日経BP社)
「アタリショック」という言葉を使った記事としては、手元にある資料のなかでこれがもっとも古いものです。「アタリショックは、正しくはワーナーの株価暴落だけを指す言葉だ」と釘を刺したがる人をよく見ますが、この記事を見ると、早くからヴィデオゲーム市場全体の不況を表す言葉として捉えられていたことが分かります。また、アタリのシェアが最大だったことだけが、アタリに責任を押し付ける論拠になっていたことも分かりますね。
米国では日本より数年早く、1970年代末からビデオ・ゲーム市場が立ち上がった。そして、1982年に一気にピークに達し、1983年に急激に階段を転げ落ちる。米Atari Corp.が60%程度と最大のシェアを誇っていたので、1983年に始まるビデオ・ゲーム不況は「アタリ・ショック」と呼ばれている。
●『ゲームの大學』平林久和・赤尾晃一(メディアファクトリー:1996年)
「アタリショック」の参考資料として頻繁に登場する一冊。この本ではアタリの赤字転落を指して「アタリショック」と呼んでいます。83年にVCSがまったく売れなくなったと断言しているあたり、先の『日経エレクトロニクス』誌の記事にあるグラフなどには目を通していないことが分かります。また、よく読んでみるとヴィデオゲーム市場そのものの消失の背景には触れていません。ちなみに一応指摘しておくと、アタリVCSが空前のヒット商品になったのは、アタリが平井氏の言う「ボロ会社」になってからです。アタリショックを「ワーナーの失敗」と呼ぶのがベストなのであれば、アタリの成功も「ワーナーの成功」と呼び直したほうが公平でしょう。
このまま行けば、アタリは世界のゲームビジネスの王者に君臨していたはずです。だが、災難は八三年にやってきました。アタリVCSのハードとソフトの売り上げが突然落ち込むのです。アタリVCSがまったく売れなくなった。原因は―――雨後の筍のようにサードパーティが参入し、ゲームソフトは粗製濫造された。その結果ユーザーはテレビゲームに飽きてしまい、アタリは顧客に信用されなくなったから―――というのが定説です。
俗に言うアタリショックが起きたのは、一九八三年の初めの頃でした。飛ぶ鳥を落とす勢いだったアタリは、八三年になると膨大な欠損を抱える赤字会社に転落していきました。アメリカの経営学の教科書などにもしばしば登場するアタリショックが起きたのです。
ところでこのアタリショック。この言葉は日本では「アタリの失敗」という言い方が造語化されてます。またその用法は、ソフトの粗製濫造を指摘する文脈のなかで使われる例が多いようです。ですがそれでは正確さに欠けるので、ここでアタリショックについてきっちり説明をしようと思います。
まずアタリの失敗という日本語訳 (?) はあまり適切ではない。なぜならアタリショックは、「ワーナーの失敗」が招いたからです。もっと言えば、ワーナー・コミュニケーションズ出身の社長や役員が、傘下のアタリをボロ会社にしてしまった。ゆえに私は、八三年のこの出来事は「アタリの失敗」ではなく「ワーナーの失敗」と表現するほうがベターだと考えます。
●『新・電子立国 (4) ビデオゲーム・巨富の攻防』相田洋・大墻敦 (NHK出版: 1997)
これはもう事実無根もいいところで、完全に作り話です。1982年の秋から大幅な値下げが進行していたのは事実ですが、コレコビジョンの人気もあってクリスマスセールスは堅調でした。見込まれたほど派手な成果が上がらなかっただけで、閑古鳥が鳴いたりはしていませんし、だいたいABCのニュースも客足が遠のいたなどとは言っていません。翌年以降の市場低迷とこの年の株価暴落をごちゃごちゃにしてしまい、後の「アタリショック」観を混乱に陥れたのがこの本だといえるでしょう。そういえば、アタリVCSの内部仕様が公開されていたという奇妙な伝説を定着させたのもこの本でしたね。なお参考文献としては、先の『ゲームの大學』と、デヴィッド・シェフ氏著『ゲーム・オーバー』だけを挙げています。
ところが一九八二年 (昭和五七年) のクリスマスに異変が生じた。ビデオゲームが突然のように売れなくなったのである。百貨店や玩具店のゲーム機売り場から客足が遠のき、閑古鳥が鳴いた。人々がビデオゲーム機も、ビデオゲームのソフトも欲しがらなくなってしまっていたのである。当時のABC放送は、ニュースでこの異変を次のように伝えている。「クリスマスの買い物シーズンを前にして、ビデオゲームの値段が急激に下がっています。ゲーム機とゲームソフトの小売り額一九八〇年 (昭和五五年) から二年間で四倍に伸びました。今年の販売額は三八億ドルと見込まれていましたが、この見込みはとても達成できなくなりました。急成長を続けてきたビデオゲーム業界は、ここにきて深刻な打撃を受けています」と。
続けてニュースは、アタリ社の株を買収して事実上の経営主体となっているタイムワーナー社の株価が急下落したことも伝えた。世に言うアタリ・ショックの到来であった。クリスマス商戦に意気込んで出荷したビデオゲームが、ことごとく消費者にそっぽを向かれてしまったのである
●「米国におけるビデオ・ゲーム産業の形成と急激な崩壊 - 現代ビデオ・ゲーム産業の形成課程 (1) -」『経済論叢』1998年11・12 藤田直樹 (京都大学)
「アタリショック」を題材としたものとしては、おそらく国内で唯一の論文です。「これがいわゆる『アタリショック』である」というところでは、参考文献にスコット・コーエン氏著『「アタリ社の失敗」を読む』と、1983年の米『フォーチュン』誌を挙げています。しかし前者に「アタリショック」という言葉は登場しませんし、後者も海外誌なのでそのまま書いてあるとは考えにくいところです。当時の「アタリショック」観が一面的だと批判しているのは注目に値しますが、残念ながらこの論文も競合他社やホームコンピュータ市場の様子までは追いかけきれていません。しかしアタリが絶頂期に至るまでの過程はかなり精緻に描写されています。
このような状況下にも関わらずワーナー側は代理店が1981年10月に注文した量を元に予測をたてていたが、現実にはその多くがキャンセルされ、アタリ社は膨大な数の在庫を抱えることになった。その結果、ワーナー社は1982年12月8日、アタリ社の売り上げ下降を理由に同年第4四半期の利益の下方修正を余儀なくされ、それを受ける形で翌9日にワーナー社の株価は暴落した。これがいわゆる「アタリショック」である。アタリ社の売り上げは1982年の第4四半期から1983年の第一四半期にかけて急落した。(中略)
1983年という年はアタリ社だけでなく米国家庭用産業全体にとっても大きな後退の年であった。市場規模は30分の1に縮小する。このメカニズムは一般に以下のように説明されている。「アタリ社の在庫処分によるダンピングと値引きが製品の値崩れを起こすとともに、当時多数のメーカーがソフト市場に参入し利益を求めてソフトを粗製濫造した。それに加えてアタリ社自身も技術力の低下から質を維持することができず、質悪なソフトの氾濫が消費者の信用を破壊し、米国家庭用ゲーム市場を崩壊させることになったのだ」と。もとより筆者もこのような側面があったことは否定しないが、しかし当時の米国家庭用市場に対するこうした評価は家庭用市場内部における競争関係にのみ限定された考察の結果であって、業務用との関係を無視している点で非常に一面的と言わざるをえない。特に、アタリショックの時期および急激性を十分説明できてはいない。