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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「政治的に正しいグロテスク」と、その教え方に関する考察(「はだしのゲン」&「銀の匙」…または「肉喰う人々」考察編

プロローグ

いやあ
「政治的に正しいグロテスク」という、今の騒動を説明する用語を思いついただけで、なんかもう満足なんだけど(笑)、そうもいかないので話を進めますね。
まず、あのあとも展開がいろいろあり、思わぬ影響も。


思わぬ副影響。「濡れ手で粟のゲン」とか(笑)

■「はだしのゲン」売れ行き3倍に 閲覧制限問題で注文増える
http://www.j-cast.com/2013/08/23182082.html
「はだしのゲン」の売れ行きが好調だ。全10巻を刊行している汐文社は2013年7、8月の2か月弱で、例年の同時期の約3倍にあたる各約7000冊を出荷。中央公論新社の文庫版全7巻は例年の2.5倍程度出ているという

はだしのゲン (1) (中公文庫―コミック版)

はだしのゲン (1) (中公文庫―コミック版)

 
今後の展開。26日に決定とか。

松江市教委 26日に結論 はだしのゲン
http://www.nnn.co.jp/news/130823/20130823004.html 
島根県の松江市教育委員会が小中学校に漫画「はだしのゲン」を自由に閲覧できない閉架とするよう要請した問題で、市教委は22日、定例の教育委員会議を開き、閲覧制限について議論したが、結論を持ち越した。26日に臨時の会議を開く。市教委は校長49人に対する聞き取り調査で、閉架の必要があると答えたのは約1割の5人だったと報告した。
(略)
 会議では市教委教育総務課が、「はだしのゲン」を学校図書館から撤去するよう求める陳情が昨年12月の市議会で不採択となった際、「過激な表現がある」との意見があったのを受け、閉架とするよう校長に要請した経過を報告。委員からは「要請の拘束力はどの程度だったのか」「大きな問題となる予測はなかったのか」などの質問があった。

 終了後の記者会見で、内藤富夫委員長は「できるだけ早くこの問題について教育委員会の立場を明確にしておく必要がある。26日の臨時教育委員会会議で結論を出したい」と述べた。

その1

そして、ここから本題へ…やや長めに引用するよ。 
閉架措置に至る経緯。

■はだしのゲン閉架問題取材報告by朝日新聞・武田肇記者
http://togetter.com/li/552852

今回、はだしのゲンの利用制限の呼びかけを決めた市教委事務局のメンバーは、当時の教育長ら幹部五人だ。この五人は昨年のある時点までは、はだしのゲンを平和教材として無条件に高く評価し、ゲンを撤去せよという外部の要求については断固拒否ということで意見一致していた。ある時点までは…。
 
ある時点とは昨年10月、この五人が、陳情を審査した市議会対策として、はだしのゲンの全巻を読んだときだ。この五人には、ゲンを平和教材として授業で使ったことのある元教諭も含まれるが、五巻までしか読んでなかった。そのほかの幹部も、ゲンを読んだことはあったが、途中の巻までだった。
 
全巻、具体的には10巻目を読んだとき、五人の心がガラリと変わったという。特に衝撃だったのは、旧日本軍兵士の性暴力の描写だったという。「これが、同じゲンかと思った」。取材に応じた幹部はこう明かした。別の幹部は記者に「あの描写をお子さんに見せられますか?」と問いかけてきた。


さて、この説明を偽証ととらえ、本当は違う意図だろ!的に推測して話を進めることもできるが、一応、真実を語っていると仮定する。
図書館、中でも学校図書館に置かれるような本…中でもマンガ…について、暴力描写、性描写、差別表現の3点は、とくにチェック点になっていること、これはまあ、実際の話としてそうだろう、つう気がするな。前二点は「エログロ」と言い換えてもいいかもしれない。
その結果、手塚治虫とカムイ伝とはだしのゲンが定番となる。
サンプル2校。(おれの卒業校)
 

ところが存外、「性描写や暴力描写、差別表現をチェックして手塚、カムイ、はだしのゲンが選ばれた」というのは、「主人公のイメージで選んだら、SMAPの香取慎吾が両さん役に選ばれた」ぐらい変な話。いやたとえがヘンだよ、そもそも(笑)。
いや、実際おかしい……
それを説明するマジックワードが、このタイトルにした「政治的に正しいグロテスク」であります。おなじグロテスク(もしくはエロチック)でも、戦争の悲惨さや犯罪の凶悪さ、人の愛や生命の賛歌、その他忠君愛国家内安全柳は緑花紅、国士無双大三元……などを表現する、となればゆるされる。
衛生博覧会の時代からのおなじみの手法っちゃあ手法だ。
「サルまん」でもこのテは紹介されている。



(上のコマ↑、もう少し詳しく下のリンクで紹介しています)
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20090625/p3

もちろん、作り手は本気100%でそれを訴えているのに、受け取る側がそーとしか見ない、という不幸にして普遍的なすれ違いもある。
それはそれとして……

その2

実は、この話の、第1報のあとの第2報…市教委の事務方が「市議会への「政治的に偏ってる」という請願などは、はねつけた。閉架はあくまで性暴力の描写が理由」という説明に対し「性暴力つったって、実際に戦場であり得る出来事が描かれたんだから」「子供の判断力を信じればいい」という議論が出たときにツイートやブクマで紹介した例がある。
その資料画像、実際に見てもらおう。


「どう? 八軒君、生命の誕生ってすばらしいでしょう」
「グロい。」
「普通、ここは『感動した』では?」
「無理無理無理!! 無い無い!! グロい!! こわい!!」
(略)
「生命の誕生よ!? 感動しないなんて あなたおかしいんじゃないの!?」
「それは畜産農家の傲慢だあ!! 感動とか押し付けんな!! ダメなもんはダメ!! 耐えられん!!」

銀の匙 Silver Spoon 2 (少年サンデーコミックス)

銀の匙 Silver Spoon 2 (少年サンデーコミックス)


「戦争の悲惨さを知るために敢えて残酷シーンも見るべきだ」
と同様に、或いはそれ以上に
「生命の尊さを訴えるために敢えて出産の光景を見るべきだ」、
というのは、社会的正当性をもった実践であり、主張であると思われる。


だがご存知の通り…うん、周知の情報だけど、作者の荒川弘氏は実際に実家が畜産農家、農業高校出身者で、おそらく牛の出産への「感動」も「グロさ」も両方知っているし、なれた人の感想も、見慣れない人の拒否反応も十分な実体験に基づいていると考えていいだろう。
 
 
「どんなに立派な大義名分があっても、
実際にみたらグロい。気持ち悪いもんは
気持ち悪いんだ!!」
  
これに、どう対峙すべきか。

その3 話は、「食肉・屠畜」にもつながる。

自分は一昨年に

■「肉喰う人々」(資料編)〜いま、空前の狩猟・食肉漫画ブーム!(「銀の匙」シカ解体前に)
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20110830/p3

というエントリを書きました。
このときは作品紹介と図版紹介しかできなかったけど、そのころから、この考察はずっと脳内ではやってきて、今回偶然「あ、話は『はだしのゲン』にもつながるな」と感じて書き始めた次第です。
反戦、
出産、
にくわえて「狩猟・屠畜・解体・食肉」も…「(一軒グロテスクで拒否反応があるかもしれんが)大切なことだ、子供にはあえて見せるべきだ、それが教育である」という論が展開されている一分野であることは、たぶん合意が得られると思うし、自分個人としては「いいね!全然OKだね!!(子供時代の)ぼくに見せまくり、教えまくりでOKよ!」と答えただろう(上の反戦・出産系のやつもぼく個人としてはOKだと表明しておきます)
 
また、特に日本では、陋習プラス近代デオドランド文化としての反屠畜感情があること…それをねじ伏せるためにも「屠畜はすばらしいこと、見せるべき論」っがある程度のゴーインさ、断言っぷりを必要としていたことも抑えて先に進みます。

岡本健太郎「山賊ダイアリー」のまさに第一巻、オープニングの場面が印象ぶかい…
この女性はおそらく熱心な仏教徒でもないので、デオドランド文化系の反狩猟者なのだろう。

バカ女(後述)のいやらしさがよく描かれていますね。

この種の「肉食が大事なことなら、その前の屠畜を忌避すべきではない」という論は左右を超えたひとつの教育論、道徳論になっている。

政治的スタンスはいろいろ変わったけど小林よしのりは、初期の「ゴー宣」でまさに「屠畜、解体は重要ですばらしい仕事であり、その光景を見て怖気づくようなやつがいたら情けない」というスタンスを表明していた。

さらに井沢元彦は「ケガレ思想」の面から「穢れと茶碗」と言う本を書いたり「逆説の日本史」4巻の副題を「ケガレ思想と差別の謎」として、肉を食べたり皮を使っておきながら屠畜を嫌がり、さげすむのを「偽善」と批判した。

今チェックしたら、上の該当本にはなくて「あれー?」なんだけど、どこかではさらに思想的にさかのぼって、聖賢の書である「孟子」の思想もふくめて偽善と断罪するところが徹底している。

http://1st.geocities.jp/songqi_xiu/kunshi.html
中国の「君子は厨房に近づかない」の意味は、『徳(仁)の高い者は、牛馬や鳥等の家畜が屠殺される厨房には近づくべきでない。高徳(仁)の人が食事を安寧に食べられるようにと配慮した言葉である。』というのが一般的な解釈である。
 中国の庖厨(厨房のこと)は古代から家畜が飼われており、厨房内で生き物を屠殺し料理するところである。徳(仁)のある方が屠殺するところを目にしたり、声を聞いたり、臭いを感じたりすると、その料理を食べられなくなる。だから、厨房には近づくべきではない。
ということである。


http://www.kokin.rr-livelife.net/koto/koto_ku/koto_ku_4.html
君子は庖廚を遠ざくくんしはほうちゅうをとおざく
君子は台所を遠ざける。
仁徳あふれる者の慈愛の心を例えた言葉で、生命のやり取りの場に好んで居ることのできない心情をいう。
なお、これは忍びざる心を生ずることが本質であって、必要な食を得るために料理すること自体を蔑むものでも、料理をしないということでもない。
出典は孟子の梁恵王上。
斉の宣王に「私如きものでも民を安んずるに足るか」と聞かれ、孟子は「王はいけにえに引かれていく牛を見て死地に行くのを忍びないが故に羊に代えたといいます。この牛を忍びざると思う心こそ、王者たるに足るものです。君子は生ける姿を見ればその死を目の当たりにするを忍びなくなるものです。故に君子は庖廚を遠ざくと謂うのです」と答えた。


そんなこんなで、教育現場も徐々に…というべきだろうか、「屠畜は見せるべし」イデオロギーも、定着とはいわんがとっぴな極論とも見られなくはなっているようだ。

豚のPちゃんと32人の小学生―命の授業900日

豚のPちゃんと32人の小学生―命の授業900日

を原作に、「ブタがいた教室」という映画にもなった。
くわしくは
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20110617/p8

だが。
ここで話は、さらに二転する。
 

その4

呉智英がちょうど15年前に出して、今では文庫になっている「危険な思想家」から。

危険な思想家 (双葉文庫)

危険な思想家 (双葉文庫)

氏は、当時人気があらためて高まっていた金子みすゞの詩を紹介する。

金子みすゞはどのように評価されているのか。8月24日の朝日新聞は、…次のような言葉を紹介する「か弱いものへの愛情を、やさしい言葉で歌い上げた。弱者と共に生きる市政が、殺伐とした現代社会への指針となっている」(略)
もっとも有名なものを一つ次に挙げる。

朝焼小焼だ 大漁だ
大羽鰮の 大漁だ。
浜は祭りの やうだけど
海のなかでは 何万の
鰮のとむらひ するだらう

そして呉智英氏は、この詩を紹介したあと、いじわるにもこう付け加える。

今ではほとんど忘れられているが、肉食の習慣が定着していなかった明治以前は、殺生といえば魚を殺すことであった。魚屋や漁師の家に片○の子供が生まれれば、それは殺生の報いとされることも珍しくなかった。

さらに江戸時代の怪異集「耳嚢」で「鰻釣りなんて罪深いことです、おやめなさい」と鰻の化身が語りかけるという説話を引用し

社会的・政治的文脈の中でとらえれば、因襲的・差別的な話ということになる

としている。

福田恆存はその初期の名論『一匹と九十九匹と』で、秩序の中にいる九十九匹のためにあるのが政治、秩序からさまよい出た一匹の羊のためにあるのが文学と喝破した。確かに金子の『大漁』は美しい。九十九匹の名も無き漁民たちの暮らしを、魚を殺めることによって成り立つ多数派庶民の暮らしを、侮蔑し差別していてもなお美しい。否、逆にそれ故にこそ、一匹の金子みすゞは美しい。しかし、人権イデオロギストたちは、いったいどういう根拠でこの差別的な作品が民主主義の道徳の教科書に採録されることを祝福できるのだろうか。

大きな枠組みで捉えるとなるほどそのカテゴリー分けは納得するが、最後の結論には当方、異議がある。その異議が、上の「はだしのゲン」閉架騒動とつながると個人的には思っている。


さて、話を続けよう…ついてきてるか?長文読み乙だが、まあもうちょっと我慢してくれ。

その5

少し話を整理する。
・「はだしのゲン」の中にある、性暴力などを含む残酷描写
・牛などの出産(人も含むか?)
・牛、鳥、豚の屠畜、解体、食肉化
 
などについて、いまとくに「こどもの教育」という面では、「非常に重要なことである」「社会的に価値が高い」「だから子供にも、包み隠さず見せようじゃないか」という議論がある。

しかし、これに関しては、「でも実際に(出産や殺人シーンは)気持ち悪いもんは気持ち悪いんだ!自分の子供には見せたくないんだ!」「(屠畜や漁で命を失う)その対象…魚や獣たちをかわいそうと思う心(さらに一部発展して、そこの行為への罪の意識)は自然と出てきちゃうよ」という人も出てくる。

あ、さらに言うと、この種の映像や体験には、医学的な?意味かどうかは知らないけど、本当に生理的反応としての忌避をする人もいるようだ。
発売が1994年の超古い本だが、めっちゃくちゃおもしろい夏目房之介と週刊朝日スタッフによる書「夏目房之介の学問」より
「血肉恐怖症」の回を。

なにしろ「あえて擬似学問化させた面白エッセイ」なので、学問的な厳密さがあるかわからんのだが、どこか権威ある機関が、こういうのも医学的な意味での病気や体質、「恐怖症」であると位置付けていいのだろうか?(いま検索した範囲では「血肉恐怖症」そのままでそれらしいものはない)

殺人や性暴力描写もしかりで、医学的な意味での寅馬だPTSDだというものがあるのかもしれないし、無いかもしれない。「みんなそういうのを見て育ったじゃねーか。北斗の拳は?ジョジョは?」といえば誠にごもっともであるが。
ま、ただ学校教育の話、図書館の話であります。
 
じゃあどうすんのさ、と。


その6

そこで、回り道して最初のほーに戻るわけだが、やはり現場のリアリズムと、作者の才能というのはおそろしいもので…冒頭にて「銀の匙」2巻を紹介したのだが、今から、3巻を紹介する。
今放送しているであろうアニメでは、どのへんまでをアニメ化してる、するのか知らないけど(もうやっちゃったかな)、食用豚を農業高校で始めて育てる主人公・八軒(中学の進学校から、訳あって農業高校へ来た子)が、そこのことに複雑な(上に書いた同情や、罪の意識ももちろんある)心情を持っていること、それが逆に生まれたときから農業育ちのような同級生にも、より深い思索のきっかけとなっていることを知った教師が…




最後のコマでクローズアップされているのは、上の「血肉恐怖症」のように、生理的な血や内臓への苦手感覚があるが、志望は獣医だという因果な子だ。

銀の匙 Silver Spoon 3 (少年サンデーコミックス)

銀の匙 Silver Spoon 3 (少年サンデーコミックス)


こういうふうな「選択権」を生徒に与えた上での屠畜紹介授業が本当に行われているのか、荒川氏の優れたイマジネーションによるフィクションなのか当方は分からないけど、実に妥当で、地に足が着いたオプションだと思います。

「屠畜はみなのためになる、神聖で偉大な仕事だ!(その通り)→だから皆、屠畜を見てショックも受けず、自分もできるようにならなきゃいかん。それに罪の意識や嫌悪感を持つものは肉も魚も食うな、偽善者め」的なイデオロギーも、

「屠畜の光景を見たらこどもたちの心にどんな傷や、肉を食べることへの罪意識、それを職業とする人への偏見が生まれるか…そんな光景を見せるべきではありません、PTSDでも出たら責任問題ですよ!!」という主張も、ともに正しいとは思わない。


暫定的結論

「上の話の『選択権』って高校生だからだろ?小学生はまた別のやり方がいるんじゃないか」という、論の弱点を自ら認めた上で強引に持っていくけど、やはりこーだと思うんだ。

・最初に市議会に提出されたという『小中学校の図書室から「はだしのゲン」の撤去を求める陳情』は、撤去を求めるということで論外の愚論。
 
・図書館に置いておいて、読みたい子が読めるという状況。これは「読みたい子」という点でその子に選択権があり、この状況で自分はいいと思っている。
 
・ただし、「はだしのゲン」内の性や暴力描写を含むグロテスク・シーンについて、まったく無知や無防備のまま飛び込むことをふせぐため、一段階のクッションを挟む…という程度にとどまる「閉架措置」なら、まあ許容範囲だし、「そのほうが小中学生が『はだしのゲン』に向き合う状況としては、より適切である」と主張する人がいても、賛同はしないがひとつのスタンスだと思う。そのへんは『閉架措置』がどの程度、実際に手にするのに難易度があるかの実務的問題。
「閉架の『はだしのゲン』見せてください」
「この作品には、残酷な描写・性的な描写があります。よろしいですか?(y/n)」ぐらいの、簡単なクッションだったら…まあいい。
 
・逆に、そういうのが今あるか分からないが、「はだしのゲン」を教室の授業の教材として、一律に児童に見せる…はよくないだろう。少なくとも、上の「銀の匙」を参考にしたような、選択権を与える…
「怖いからいやだ」「グロいからやだ」「じゃあ、見なくていいですよ」
的なことが、普通であるようにしなければならないのではないか。


【忘れてたこと追加】そーだ、書き忘れてた。
あとひとつ、絶対必要なことがある。
屠畜を例にとると
A:「【私は】見たくない。パス。」
B:「【私は】平気。むしろ必要だと思うので見る」
というのは、どちらの側も、どちらに対してもニュートラルなものと扱わなければいけない。
「自分も肉を食ってるくせに、それが出来るところは見たくないなんて偽善者!」
「あんなシーンが平気で見られるなんて、そういう趣味の人?シリアルキラー?」
みたいな否定論を、相互に投げつけあってはいけない。
価値判断に序列をつけてはいけない。
ここはすごく重要だ。
だから上で紹介した、山賊ダイアリー冒頭に登場する、作者の別れた彼女?は「バカ女」であると断言できるが、
「『少なくとも俺は』牛の出産がグロいんだ!」「『出産なら感動しろ』というのこそ価値の押し付けだ!」と抗議する八軒はしごく全まっとうであり、反省すべきはたしかに御影やタマコら畜産農家のほうなのである。

「よつばと!」釣り堀編に出てくる彼女(みうら)の例であげれば「私ダメです、お任せします」と確かに、できる人に投げていい。
だけど、このときにその前後のコマで「いまどきの子供か」「ゲーム感覚だ」と、自分の代わりに魚の命を奪って料理をやってくれる友達をDisる場面がある。もちろんこれは「そりゃあべこべだ(できないお前が今どきの子だろ!)」という突っ込みを誘うギャグなのだが、真面目にあの場に、いい大人がいたら「君の言うことは間違っているよ」と諭すべき場面である。

よつばと! (4) (電撃コミックス (C102-4))

よつばと! (4) (電撃コミックス (C102-4))

上で呉智英氏の論に賛同しなかったもそのへんである。なるほど発展させていくことによってそうなるのだろうけど、「鰯さんがかわいそう、浜での大漁は、海の中では鰯さんのお葬式だね」は「漁は罪。猟師の家に災いが起きたら、それは殺生の報い」と別の思想であり得ると思うから。
 
もっとも「殺生」「穢れ」などは宗教的観念でもあるので(日本でそこまで原理主義的観念を持つ人は良かれ悪しかれ、少ないだろうが)「見なしの自由」的に内面でそういう宗教的信念を持ってもいい。だが世俗国家の、国家教育の場においては持ち込めない概念だ。
もし無理に持ち込むなら「殉教」の覚悟がいる話だ(死ぬという意味ではなく、その宗教的観念の持ち込みに対してペナルティを課せられても仕方ない、ということ)
 
反戦平和教育における戦争犯罪の視覚教材も同じようなものである、と思うだがいかがか。

それが、ぐるりと回って考察した上での当方の仮案。
そう、思った次第です。

余談

この記事結局、「銀の匙」へのリスペクト表明みたいなもんになっちゃったが、そんな同作品はこんど実写映画化されるとか。
主人公、ヒロインとも当方は知らない俳優。
映画公式サイト
http://ginsaji-movie.com/



このテーマに関しては、それでもまだ補論というかスピンオフ企画(笑)があるので後日でも。