岡真理「記憶/物語」

 私にとって岡真理は鬼門である。なぜなら、私の書きたいものは、たいてい岡さんがずっと上手に書いているからだ。いつも読みながら「どうか、私の考えていることを岡さんが書いていませんように」と祈っている。
 と言いつつ、私と岡さんは決定的に、感覚が違うところがあるなあ、と思う。今回、「記憶/物語」を再読して、それを再確認した。

記憶/物語 (思考のフロンティア)

記憶/物語 (思考のフロンティア)

岡さんは、記憶の物語化に徹底して抵抗しようとする。むしろ、記憶とは、断片であるという。それが、首尾一貫した全体像を結んだとき、全体化されえない残余が、全体像からは捨て去られていることを指摘する。
 私は、この全体像ではなく断片を重要視する傾向については批判的である。*1私は、記憶を物語化することに対して、肯定的な面がある。

 人は語りえない過去を、物語に加工する能力がある。短い言葉で表せば、神話化・寓話化、すなわち物語化である。「昔むかしのお話」を語り継ぐ中で、そのお話の内包するような、人間という存在の残酷さは影を潜める。代わりに、神秘世界が導入され、「私たちが体験することのない外部のお話」としてパッケージングされる。そうして、フェアリーテールとして、語りえない過去を、共同体で共有するのである。
 しかし、この構造は、事後的に近代・現代人が発見したものだ。「本当は怖いおとぎ話」として、フェアリーテールは解体され、その外部の文脈とつなぎ合わされて、前近代人の文化として再構成され、分析される。
 私がここで問題にしたいのは、フェアリーテールは真実を薄めた「まがいもの」である、ということではない。フェアリーテールは、先に述べたような構造を熟知して用いられた、過去を忘却するためのたくらみではない。誰に教えられたわけでもなく、世界各地で、多くの昔の人が、共同体で過去を共有しようとしてきた営みの中で、物語化の技を編み出してきたということである。そこには、近代ナショナリズムの謀略はない。
 ナショナリズムは物語化と結託し、その力を強めることが多い。それへの警戒の目配りは重要である。*2しかし、そのことは物語化=ナショナリズムという問題とはまったく別物である。それを踏まえながらも、岡さんは、いかに物語(とりわけ小説)がナショナリズムに取り込まれてるのか、ということを論じている。
 岡さんの分析のほとんど異論はないし、私も物語の多くはナショナリズムと結託しうるように思う。しかし、同時に、物語がナショナリズムに取り込まれている点をあげつらうことに、違和感がある。
 岡さんは、映画「ワンダフルライフ」を取り上げている。*3「ワンダフルライフ」では、死者たちが個人的な記憶を物語化し、「私の人生はよいものだった」と結論づけてあの世に向かう様子が描かれている。
 岡さんが問題にするのは、ここに日本語をしゃべる日本人しか登場しないことである。在日コリアンが出てこない。日本語をしゃべれない難民・もしくは難民的状況にある人が出てこない。また、慰安婦の登場人物がいた場合、同じように過去を想起させるのか、と問う。「ワンダフルライフ」は、そのような語れない人たちを、最初から排除した、ナショナリスティックな作品だという。
 なるほど、そうともいえるだろう。しかし、それはPCの問題であって、物語の問題ではないように思う。物語を、芸術と置き換えたほうがいいかもしれない。私は、ずっと頭の中の本棚では、スピヴァクの隣に岡さんを並べていた。しかし、サルトルの隣に並べるべきだったのかもしれない。
 サルトルは、芸術作品よりも、飢えている子どもにパンを差し出すことに価値を見出す。それはイデアリズムからの脱却であり、アクティヴィズムへの移行である。この問題には、多くの芸術家が直面してきた。しかし、サルトル以降に明らかにされたことは、飢えている子どもが、芸術よりもパンを求めるなどとは、誰にも言えないことである。それは、さまざまな芸術家の芸術活動によって明らかにされた答えである。私がここで念頭においているのは、ソンタグの「ゴドーを待ちながら」のサラエヴォ公演である。また、ロシアのアバンギャルド演劇やそのほかの、反体制的意味合いを持つ/持ってしまう芸術である。
 岡さんは、物語化すると、真実が零れ落ち、捨て去られるという。さらに、政治的視点から作品をみて、虚構のリアリズムがせり出し、私たちは「まるで真実を知っているようだが、その実、何も知らない」状況におかれると批判する。一方で、これは、まさに先にあげたソンタグの写真論で主張されることである。ソンタグは、岡さんと同じ状況を指摘しつつ、<だからこそ>より寓話的(物語的)な「ゴドーを待ちながら」をサラエヴォで公演する。岡さんの「ワンダフルライフ」の分析と重ね合わせれば、この作品にはサラエヴォの人々は出てこない。むしろ、キリスト教的世界を描いているとも言いえる。しかし、サラエヴォの人たちは、この公演に熱狂したのだ。なぜか。そこには、個々人の真実を捨て去り、典型化することによる、普遍的な像(全体像)が描かれていたからだ。
 私は、岡さんと非常に近い位置にいる、と思いつつ、決定的に違うと思う点がある。すなわち、「私は虚構を愛好している」ということである。断片がみせる真実の魅力は重々承知しているが、それを言うばかりではどん詰まりであり、無理やり分有しようとする試みには違和感だけが残る。
 それは、私が以前に、ハイナー・ミュラーの「ハムレットマシーン」という作品を、研究課題にあげていたことに起因しているかもしれない。この作品は、超一部の演劇人*4に影響を与えた。ミュラーは、シェイクスピアのハムレットを解体し、近代劇作品と混ぜ合わせて、荒廃的な現代社会を象徴主義的技法で表現している。対話すら放棄された、ハムレットのモノローグだけが繰り出される言語世界であり、まさにつぶやきと証言の演劇である。
 私は、一生懸命この作品の研究に取り組んだが、1年も持たずに、放棄した。*5結論は「現代演劇の未来を豊かにする処方箋はない」ことであった。私がそんなことを言うことに意味はあるんだろうか、と心底思ってギブアップした。岡さんの断片を求め、全体像を忌避する論の展開を読むと、そのときの絶望感が想起される。「人間の真実は断片であり、全体像にはない」という結論には賛同するが、それを言っても全然先に進む気がしないのだ。
 この後、事情はいろいろとあって、私はもう一度、別のテーマをあげて、証言だのなんだのの議論することになる。そのときに気づいたのは、「虚構はおもしろい」というそれだけのことだった。人は嘘をつく。意図的なこともあれば、意に反することもある。真実は、どんどん零れ落ちて、物語が作られ、耳障りのよい話だけが残る。聞き手も、重苦しい断片を聞くよりは、よっぽど楽しい。
 ところが、うまくまとまっているはずの物語は、どこかで綻びを見せる。言葉の一瞬のよどみ。ほんの少しの整合性のつかない筋。気がつかないくらい些細な、前回の語りとの違い。語っている本人すら、気づいていない物語の破綻が、ちらりと見える瞬間がある。
 岡さんは、この破綻を糸口に、分析して過去にさかのぼり、真実を明らかにしようとする。しかし、私は「破綻そのものが真実だ」ということを明らかにしたい。過去の真実を暴くのではない。今、破綻し整合性がつかず、断片としてしか現れないような過去がある、それだけで十分である。そして、そんな過去を抱える人と、どう生きていくのか。私の問題意識はそこにある。

 私にとって、過去が虚構の形をとってしか現前せず、真実が零れ落ちることは、悲しむことではない。むしろ、虚構でしか現れないのならば、その虚構を共有すればよいのである。しかし、虚構を共有したところで、落ち着きのよさなど得られないだろう。なぜなら、虚構は常に破綻し、落ち着けないからである。虚構の整合性にこだわればこだわるほど、全体像をくまなく見ようとすればするほど、整合性も全体像も崩れてしまうだろう。
 私はむしろ、真実を求めることで、それで何かやったことになるような、落ち着きのよさを恐れる。私たちは「まるで真実を知っているようだが、その実、何も知らない」が、真実を知るまで待機しているわけにはいかない。そんなときは永遠にやってこない。
 しかし、私たちは虚構しか知らないのではない。虚構なら知ることができるのだ。語り手が語りえぬことは知れないかもしれない。だけれども、語り手が語りたいことは知れる。そして、語り手が語りたいことにこそ、語りえぬことは到来するのだ。

*1:詳しくはこちらで書いた。http://www.parc-jp.org/main/a_alta/alta/2007/08/tetsugaku

*2:私も先日書いたところである。http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080117/1200585633

*3:私はこの映画をみていないので、岡さんの記述に従って、これを書いている。

*4:(私も含めた)こういう人たちhttp://www.geocities.jp/hmlinkjp/

*5:十代だったしね