ホワイトバンド問題に議会政治の原点を見る

MetLog: ほっといてもいいほっとけない世界の貧しさ階層化の見取り図はわかりやすい。

この問題のひとつのポイントは「広告代理店的戦略と倫理の関係」だと思う。商品を売る為のノウハウで良心を動員することの正当性をどう考えるかだ。その観点に問題を絞り、少し抽象化しつつさらに整理してみると次のようになると思う。

小二病
何も考えず戦略に乗る。操作された自分が本物の自分
中二病
全て拒否。広告を見る前の自分が本物の自分
高二病
極端に走るのは子供。両方に等しく自分がいる
大二病
こういった見取り図を描くことに固執

小二病は、広告によって操作された意図が、広告代理店の意図ではなくて自分の意図であると思うことだ。広告代理店的ノウハウに関する知識と関係なく、そういうスタンスはあり得ると思う。広告はその問題に目を向けさせて、必要な情報を提供してくれただけである。それに気づき、同じ情報を提供されれば、広告が無くても自分はそういう判断をするということ。

中二病は、小二病と全く逆に、そういう操作は外部からの不当な干渉であるとする考え方。広告を見て「これは大変だ」と思ったとしたら、その判断は自分の判断ではない。自分の良心ではない。その「良心」に従って行動するのは、自分ではなく広告代理店の意思に従っていることになるということ。

高二病は、小二病的立場と中二病的立場の間に中間の立場が無数にあって、そのブレンド具合を選択するのが、自分の意思であるという考え方。

大二病は、自分の立場を表明するより、それを高所から分析することに意義を感じる。(このエントリーみたいなのが典型的大二病)。

「広告代理店的戦略と倫理の関係」という問題は、法や学問や伝統という既存の枠組みには、なかなかあてはまらない。だから、オーダーメイドで考える必要がある。それに対して意見を表明する為には、「コミット」する必要がある。「自分はこれについてこう考えるこういう人間である」という情報を公開することになる。

既存の枠組みで論じることができない問題は、「コミット」する人による議論を必要とする。

すでに、「コミット」する人たちが深い議論を進めていて、MetLogさんのエントリからリンクをたどっていけば、ある程度納得できる意見が見つかると思う。(おまけとして、suneoHairWax::ein differenztheoretischer Ansatz - ホワイトバンドへの嫌悪について。も推薦)。

その中で、「俺はまさにこう思ってたんだよ。この人の言う通りだ」という意見が見つかれば、あなたは直接的に「コミット」する必要がない。自分に関する情報を公開することにはリスクが伴なうので、「コミット」することには負荷がある。あなたの負荷をその人が代わりに負担してくれたことになる。

納得できる意見が見つからなくて、「違うんだ、それはこうなんだ、俺はこう思うんだみんな聞いてくれ」と思う人は、別の意見を自分で表明する。そうして、多様な意見が集まることで、誰もが「俺はまさにこう思ってたんだよ。この人の言う通りだ」と思える意見を発見できるようになる。それが、「議論を尽くす」ということだと思う。それが、代議制民主主義の本質的な機能ではないだろうか。

つまり、昔は、物事のスピードが遅かったので、「既存の枠組みで処理できない問題」が発生した時の議論も、ずっとゆっくり進めることができた。こういう新しい問題が発生すると、それに対して議論が起こり、「階層化まとめエントリ」の代わりに、小二党、中二党、高二党、大二党という政党が生まれたのだ。

政党間でその問題について議論して、「誰もが『俺はまさにこう思ってたんだよ。この人の言う通りだ』と思える意見を発見できる」状態になるまで、議論を尽くす。そこまで行ってから多数決を取るのと、そのプロセスなしにいきなり多数決で決めるのでは、人々(特に負けた方)の納得感が全然違う。議会政治における議論というのは、ビジネスのミーティングと違って、情報交換やアイディアの交換ではない。参加者全員が問題に「コミット」していくプロセスなのだ。

物理的制約、能力的制約から、誰もが自分の「コミット」を自分で言語化できるわけではない。政治的問題は本質的には既存の枠組みで処理できない問題なのだから、「コミット」を言語化する能力を学習によって獲得することは、誰にも可能なことではない。

だから、人々の代わりに「代議」する人が必要とされる。人々は自分で問題に対する意見を言語化する代わりに、代議士を選択することで問題に「コミット」する。「コミット」するとは、「自分はこれについてこう考えるこういう人間である」という情報を公開することだ。

だから、こういう議論の中には、民主主義の本質が含まれていると思う。

私は、ホワイトバンド問題について、当面は大二病的スタンスにコミットする。「俯瞰して傍観する」ということは、今起きていることを消極的に肯定するということであり、それもひとつの政治的立場である。私は、これは政治的問題ととらえるので、それも「コミット」であって、それによって私がどういう人間であるのか、読んでいる人にいろいろな意味で情報を与えていると思う。自分を抜きにした「中立的な立場」というのは、政治的問題については存在しない、存在し得ない。

このような「コミット」を必要とする政治的問題はたくさんあって、だからこそ、新しい民主主義のプロセスが必要とされているのだと思う。

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(追記)

私のスタンスをこれで分類すると、朝日新聞関係が中二病、小泉さんに対しては小二病、日本三大アミ関係(これとか)や音楽関係が高二病、Google関係が大二病っていう感じ?