ホワイトバンドへの嫌悪について。
otokinokiさんに反論を書く、と言ったので、書きます。
ポイントだけ述べたいので、前提を知らない方はプラセンタ、なぜ馬や豚のものを使う?と蜂の子と蜂の子サプリの安全性とはてなキーワードの「ホワイトバンド」とhttp://hottokitai.jp/と、あとはその周辺のまとめサイトなどを読んでください。
まず(ここで述べることの)前提。
私は世界の貧しさをほっときたい。子供が3秒に1人死んでいるという。しかし私はどこかの発展途上国の子供が3秒に1人、いや2秒に1人死のうとかまわない。全て死滅してもかまわない。私には無関係な話だ。
彼らを救うメリットは私にはない。彼らを救って自己満足を得られるような、また、彼らを救う金銭的余裕のある者だけが救えばいい。
私達には世界のあり方に関わっていく権利と責任があります。もちろん、あなたにだって。 http://hottokenai.jp/who/index.html より引用
断言する。「私達」には関わっていく権利はあるが、責任はない。私のように慈善事業にメリットを見出せない者を無理やり関わらせる権利もない。
上記引用はまったくもって正当(一部分を除いて。後述)。
ホワイトバンドがコンビニで売られ始めた当初、ぼくは「ほっとけない」というキーワードに反応し、「いや、ほっときたいよ」と思い、白いシリコンの格好悪さに辟易し、「買うか、バーカ」と思った。数日後、「ほっときたい」というパロディめいたサイトが立ち上がったのを知り、「まあ、そういう反応は健全なことだ」と思った。
後日、手元にホワイトバンドがやってくる。ある人からプレゼントされたのだ。その人にはメールに「http://blog.livedoor.jp/oisa25012/archives/30895034.html」とだけ本文に書いて送りつけた。その人からの返事は「ぬーー募金されるのは三分の一じゃなかったのかー」というものだった。
つまり完全な「勘違い」が、一方では、存在している(/た)。ホワイトバンドは「募金」ではない。参加NGOへの寄付だ。その意味で、「ほっとけない」の胡散臭さに反応して、「これを買ってもアフリカへは1円たりとも届きませんよ」という啓蒙を行なうのは正しい。
ただもう一方で、
途上国の貧困は途上国の国民の責任である。先進国が豊かさを手に入れるために、どれだけ努力してきたか。彼らはその努力を怠り、その結果として貧しくなったのではないか。経済戦争の敗者が勝者よりも苦しい生活となるのは当然である。それを先進国にも責任があるとし、借金を帳消しにすべし、さらに経済援助すべしと主張するホワイトバンドプロジェクトには全く賛同できない。
そもそも途上国の貧民は、日本国内で借金を苦に自殺してゆく人々がいることを知っているのだろうか。日本人とて死にもの狂いで稼いでいるのだ。ある者は働きすぎで死んでゆく。KAROSHIは今や国際語だ。日本人が命がけで稼いだ金である以上、彼ら途上国の国民も臓器を売るなどして命がけで返す義務があるのではないか。
日本を未曾有の不景気が襲っている。途上国の借金を帳消しにするどころか一層厳しく取り立てるべき局面であると私は思う。私は世界の貧しさをほっときたい。
というような、完全な「無知」も、存在している(これは過去形にはできない)。
40年以上の学的蓄積がある世界社会論についてのイロハすら知らない。ぼくも専門家ではないので、網羅的に、どんな議論があるのか、あったのかについては知らない(網羅的に「知って」いる専門家だっていないだろうが)。
世界社会論のポイントは、経済システムが経済合理性に【のみ】従って作動すると、(1)南北「問題」と(2)国内の階層格差の「問題」が生じる、ということだ(ぼくは社会学者だからそこまで単純化して言いたくないけど〔経済システムの環境を考慮せずにそんなことを言ってみても――社会学的には――何も言ったことにならないから〕)。
ぼくがここで言いたいのは、「世界社会論を知れ!」ということではない。「グローバル経済が構造的にどのような効果を生じせしめているのかを学べ!」ということではない。
分業社会において、そのようなことは不可能だ。「世界社会論のイロハ」などといったが、ぼくだってたまたま社会学を学んでいて、たまたまそのようなトピックについてほんの少しだけ「知って」いたにすぎない。
専門的な前提知識が必要な決定は、専門家にまかせる、というのが分業社会のイロハだ(そのぐらいのことは知っておきなさい――てゆーか知ってるでしょ?)。NGOの流行は、(国連との協力という意味において)世界社会化の歴史的な文脈と、優秀な官僚組織によってすら処理しきれない「問題」の「問題化」の増大、という近代化の文脈から理解しなければならない。
「胡散臭い」NGOがないわけはない(大半はひどいものだ)。専門家だからといって「よい」決定が行なえるという保証もない。そのようなことはここでは棚に上げている、というだけだ。
ここでのポイントはこうだ。
本題の、otokinokiさんの記事2005-09-11への「反論」。
「ホワイトバンド嫌悪」が跋扈するなかで、いちいちそれらに反応・反論することもなく、「ホワイトバンド問題」にほとんど関心すら持っていなかったのに、ぼくはotokonokiさんの記事にだけ反論する気になった。
理由は、otokonokiさんの記事が、
- 「PCをイメージ=商品として金儲けすること」に対する批判・揶揄
- 「利益を寄付するのではなく制作費・流通費として利益化すること」に対する批判・揶揄
に読めてしまうからだ。「揶揄はしてるけど批判はしてないだろう」というふうに、読み手によっては読めるかもしれないが、揶揄のもたらす批判的な効果を考えれば、ぼくはやっぱり一言言っておかなければならないという気になる。(「言わなければ」とまで思った理由はエントリ最後で述べる)
otokinokiさんは、『GQ JAPAN』2005年10月号の記事「ファッション?チャリティ?予約待ち100万本、白いバンドの正体。」から、サニーサイドアップ・次原悦子代表取締役社長の発言部分をほぼ全文引用している。
- 【引用1】
「ネットで偶然イギリスのクリッキング・フィルムを見て、『なんてかっこういいんだろう!』と思ったんです。だからきっかけはある意味、よこしまなものだったんです(苦笑)。でも、それって大事なことで、かっこいいと思えるものだからこそ、多くの人が賛同して、大きなムーブメントになったと思うんですよ」
- 【引用2】
「もともとホワイトバンドは開発途上国のNGOが自国政府に対して貧困問題をアピールするために、白い包帯やひもなどを手首に巻いて運動したことから始まった。そういうエピソードや、世界の貧困問題の現実を知るにつれ、本当に『ほっておけない!』と思うようになった」
そこから次原社長は一気に走り始めた。自社の資金を投入して、ホワイトバンドを中国の工場で生産する道筋をつけ、20年かけて培ってきたノウハウや、人脈を活かして、PR戦略をプランニング。
(中略)
7月頭のG8に間に合わせるため、「社員の反対を押し切って」“突貫工事”をはじめた。
- 【引用3】
このプロジェクトの新しいところは、販売で得た利益を直接寄付するのではなく、製作費や流通費もキチンとだした上で、残りを貧困撲滅のための啓発・広報活動やロビー活動などの費用に充てていくという面です。その考え方は私にとって新鮮だったし、納得のいくものでした。
otokinokiさんの記事では、
【引用1】は「PCをイメージ=商品として金儲けすることに対する批判・揶揄」の文脈で引かれ(=【1】)、
【引用3】は「利益を寄付するのではなく制作費・流通費として利益化することに対する批判・揶揄」の文脈で引かれて(=【3】)いる。
まず【1】から。
この次原発言は、ぼくには、シチュアシオニスト・インターナショナルの運動を英語圏へ導入したマルコム・マクラレンの反覆にしか見えない。すなわちありふれている。次原が「かっこういい」と思ったという、そもそものリチャード・カーティスによる「クリッキング・フィルム」にしても、SI*6の理論家ギィ・ドゥボールの戦略を略奪したゴダールの反覆にしか見えない。すなわちありふれている。
ありふれているからといって、ぼくは、それを批判したいわけではない。「いったい他にどんなやりかたがあるっていうんだろう?」と思うだけだ。
これは逆転しているだろうか?ゴダールやマルコム*7が「かっこよさ」を商品にして「ポリティクス」を売ったのに対し、次原は「ポリティクス」を商品にして「かっこよさ」を売っているだけではないかと。しかしそれが本当に逆転しているからといって――誰がそう判断するのか、しうるのか、ぼくにはわからないが――なにが変わるというのか。
あるいは逆転していないかもしれない。批判しうるとすれば、ホワイトバンドを「かっこういい」と消費者が受容するような「シチュアシオン」などどこにもないではないか、という点だけだ。しかしそんなことは広告代理店が頭を悩ませればいいだけのハナシだ。
otokinokiさんの「揶揄」は、意図はどうであれ、「PCイメージを商品としてパッケージ化すること」への「批判」の効果を持つ。だがそれはありふれた戦略へのありふれた――揶揄を込めて言えば、未分化な――批判だ。
次に【3】。
「前提」で述べたとおり、NGOが活動資金を調達すること自体にはなんの「胡散臭さ」もない。あらゆる組織運営(NGOだけでなくPR会社のような企業の運営)にはコストがかかり、貨幣による商品取引をおこなう社会では例外なく資金が必要となる。
- 分業化が進み、問題解決処理に多大なコストがかかる社会では、官僚組織のみならず、NGOのような専門的政策案出機関に負荷を分散させなければならない。
と述べた。これは同様に、資金の捻出にあたっては、資金の捻出という専門的機能を担う一機関として、当のNGOではなくPR会社が担当することにも妥当する(あくまでも「一」機関であって、それゆえに「製作」や「流通」にもそれぞれの担当機関が存在する)。
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ここまでのポイントはこうだ。
- ビジネスモデルとしてのPCイメージという戦略は、ありふれたものであるだけでなく、現状において不可避である。
- あらゆる組織の運営にはコストがかかる。
はてなブックマークにブックマークさせる効果
【引用2】をotokinokiさんが引いたことに関する文脈を、ここまで特定していなかった*8。
【引用2】に続くotokinokiさんの地の文を引用:
このインタビューを読めばわかるのだけれども、自社のコネとノウハウを利用して、かつ乙武さんで培った《非難しにくい「世界の貧困問題」を解消するというポジション》を取って、ホワイトバンドを売って利益を上げちゃうというのがスゴイ。
・・
非難されにくいように上手く白粉塗って、きっちり中国に工場まで作り上げる。さすが。
さらにエントリ後半から引用:
え? 僕かい? 僕はホワイトバンドは買っていないよ、恰好イイとは思うけどね。
最近仕事で忙しいから、ここ一年はほとんどできていないけど、休日に体を使って障害者へのボランティアをするのが、僕のボランティア運動なんだ。
*2:《社員》が反対したという点に注目。当然だけど社員が反対した理由は赤字になるから。それで儲けて中国の工場を手に入れたのだから、次原社長は豪腕だよね《笑》
ここを読むと、やはり「批判」ではなく「揶揄」ではないか(それをどう区別するのかはわからないけれど)、と思われるかもしれない。しかし何度も繰り返すが、このような揶揄がどのような「効果」をもつのか/もちうるのか、otokinokiさんが考えなかったとは思えない。効果を考慮せず、いったいどんな事情で「糸井メソッド」などを用いなければならないというのか。
このエントリをぼくが書いている時点で、当該エントリへのブックマークは100に届こうとしている。ブックマークしたひとたちが、どのような「読み」を行なったのか、誰にも知ることはできない。だが、彼/彼女らのある種の欲望が、ブックマークという行為を促している。決定はしていない。たんに、刺激し、促した。
ぼくはotokinokiさんへの「反論」を書くと述べたが、この「反論」はブックマークをした100人の方々への「応答」として書いている。ぼくの動機づけはそこだ。
「ほっときたい」からの引用に、「上記引用はまったくもって正当(一部分を除いて。後述)」と但し書きをした。「正当性」を持たない部分は以下:
私のように慈善事業にメリットを見出せない者を無理やり関わらせる権利もない。
「無理やり関わらせ」てなどいないではないか、ホワイトバンドは商品として売られているだけで、支払う/支払わないの選択は、つまりどちらを選ぶかは、強制されていないではないか――そう思うかもしれない。つまり、無意味な言明で、正当性をもつとかもたないとか、いえるような言明ではないのではないか――そう思うかもしれない。
だが、やはり「無理やり関わら」されているのだ。わたしたちは。その「選択肢」が強制的に与えられている、という点において。つまり、「支払う」にせよ、「支払わない」にせよ、そのどちらかを選ばなければならない、という点において。
そして、もし、参加NGOが力を持ち、政策決定に関わり、決定がなされれば、その決定は(政治システムの)定義上、拘束力をもち、わたしたちに関与する。わたしたちがもし「そのような政策方針には従えない、よって税金を支払わない」という決定を行なえば、それは法システムによって「不法」と判断される。正当性を持たない、というのは、かかる意味で、法的正当性をもたないということだ。
むろん、たかがそれだけの意味での「正当性」など、クソだ、と思われるかもしれないし、ぼくもそう思う。しかし、政策の決定が、投票のみならず、あるいは従来の市民運動のみならず、消費行動によって刺激されるとしたら。そのことに嫌悪感をもつ/あるいはもたない、という判断は、理解できる。ブックマーカーの「欲望」はそこにあるのではないか。そしてotokinokiさんの「揶揄」は、そのような「欲望」をターゲットにしているのではないか。
前節でSI理論を引き合いに出したとき、「そのような『シチュアシオン』などどこにもないではないか」と述べた。だが、まさにブックマーク=反応は、「シチュアシオン」への反応なのではないか。というよりむしろ、ホワイトバンドをかっこいいと思うか思わないか、当該プロジェクトに賛同するかしないか、などという図式が「シチュアシオン」なのではなく、これらの反応をもってして(ドゥボールのいう)「シチュアシオン」とよばれるべきなのではないか。
これらの反応=判断を「理解できる」と言った。「理解できる」からといって賛同するわけではない。ぼくはたんに、くだらない、と思う。
ぼくはホワイトバンドは買わない。なぜならいまのところいかなる具体的政策も提案されていないからだ。「買うな」とは言わない。だって、ホワイトバンドプロジェクトは政策提言をする前に・ロビー活動をする前に、まずは組織をしっかりさせよう、そのためには金が必要だ、というプロジェクトなのだから、とりあえず希望をもとう、と思う消費者たちは買えばいいし、思わなければ買わなければいい。
この節のポイントはこうだ:
- 消費活動が政策決定を刺激する「シチュアシオン」への反応として、ブックマークがなされた。あるいは「シチュアシオン」への嫌悪をあてにしたエントリが書かれた。
- しかしこれらの反応は未分化で、稚拙だ。
このエントリのポイントはこうだ
- 「裏」で「金」がからんでいるとわかるとハァハァ喜んで反射するのはやめろ。
- 組織運営には金がかかる。
- 金儲けにはPR会社がからむこともある。
- 政治が商品化、PCが商品化されるのはありふれているし、戦略として不可避だ。
- いまだに「よい」政策決定がなされるかどうかもわかっていない段階で批判したり持ち上げたりするのはやめろ。