国家による管理売春の問題点
思想的に、とか書いたものの、もう少し理詰めで考えてみる。
そもそも私が増山氏の提案で問題だと思ったのは、性の問題ではなく、国家の介入という点だ。私自身は、性的な欲求を抱えながらもそれを満たされない人に「自助努力で相手を見つけてこい」などと言うつもりはないし(前のエントリでも売春は否定していない)、売春がイコール搾取を導く極限的な労働だとも思っていない。では、何が問題なのか。
ディベートの定石に従って、どうやったら増山氏の提案を肯定できるか考えてみよう。まず、需要があるとする。この人たちは、自らが性愛的に満たされていないことに対して鬱屈を抱えている。それは時に極端な形で暴発する可能性があるので、なんとか対策しないといけない。では、この人たちの需要はどのようにすれば満たせるか。本来ならば「あなたがどんな人でも愛してあげる」と言ってくれるパートナーと結ばれることが、最良の解決となる。だが、それは人の心の問題であるため、介入的に「あてがう」ことはほぼ不可能である(可能であるとしても、需要をすべて満たすだけの供給を期待できない)。
次善の策として「金銭による解決」がある。お金さえ払えば、一時的にせよパートナー関係を結んでくれるというサービスを購入することによって、極限まで不満が鬱積した状態に陥ることを回避できる。一発抜いてしまえば、賢者タイム突入でしょ、というわけだ。
しかしながら、それが金銭による解決である以上、手持ちの金額によって購入できるサービスの質は異なる。フリーター暮らしで借金を抱えていたりすれば、大衆店であってもソープ通いはかなり苦しい。よって、こうした人々にも「格安」で本番行為を提供する場を提供しなければ、初期に設定された課題は解決されない。
3000円という価格設定は、大衆店の10分の1といったところだろうか。一人の女性が一ヶ月に取れる客の数には上限があるから、この価格設定で売春女性の生活と、設備その他の維持費をまかなうことは非常に困難である。そこで、その不足分を担保する主体として「国家」が登場する正当性が生まれる。国家は、買春した男性から受け取った3000円と、公的な支出を元出にして、従業員女性の給料、各種福利厚生費(性病検査費の負担など)、施設維持費(シーツやタオルなどの洗濯)、その他人件費(受付など)を捻出する。女性はもちろん公募制であり、希望がある限りこの仕事を続けることができる。場合によっては、一定の「出来高給」を保証する必要もあるだろう。
自発的な意志で働く女性と、需要を持った男性のマッチングに、国家が貢献するだけなのだから、たいした問題はない、と見えるかもしれない。しかし、倫理的な問題以前に、このアイディアは経済的な問題を抱えている。まず、3000円で本番行為ができる公営売春宿ができれば、確実にその他の性風俗産業は全滅する。本番ナシの前提でヘルスなどに勤務していた女性、および風俗の従業員男性は一斉に雇用を失う。それを避けようとすれば、国家はすべての性風俗産業を国営化し、現在の市場規模のほとんどを国費によってまかなわなければならなくなる。
また、売春女性は自由意思による公募で集めるとはいえ、他の性風俗産業が壊滅した後、唯一の風俗産業となった公営売春宿に就職することは、間違いなく絶対につぶれることのない、超安定職の公務員になるということだ。結果として、民営の性風俗であれば働くことをためらったような女性が、「安定」目当てに参入してくる可能性が高まる。それを果たして純粋な「自己決定」と呼ぶことができるかどうかは、非常に微妙な問題だ。
以上のような問題から、「国家が3000円で売春できる場所を作る」ことは、非常に困難であることが分かる。では、国営というアイディアを外して考えるとどうか。参考になるのは、いわゆる「セックス・ボランティア」だろう。最近では『都立水商』あたりでも(微妙に誤解されそうな危険もあるが)紹介されていたりするので、認知も高まっているが、オランダでは公費補助がついた形でセックス・ボランティアが合法化されている。「モテない男性のために性的サービスを提供するボランティア女性」を派遣するNPOを立ち上げ、そこに公費で助成金を出すというアイディアはどうか。
これに関しては、ぎりぎりのラインで肯定できるかもしれないな、と私は今のところ考えている。ただし大きな問題がある。それは、障がい者向けのセックス・ボランティアの場合、それは四肢が不自由で自慰行為もできない人のための「介助」という位置づけなのであり、また、知的障がい者に対して間違った知識で自慰や性行為を行うことによる感染症、妊娠などのリスクを指導するという役割も持っている。設定された課題は、「性愛からの疎外によって暴発しそうな男性からガスを抜く」ことだったはずだが、さて、そういう男性をどのように抽出できるのか。自己申告制にすれば、それは結局、国営売春と変わらない。風俗が壊滅しないにしても、順番待ちの行列は大変なことになるだろう。この案では、順番を待っている間に、本当にこの施策が必要な人が暴発するリスクを回避できない。
もうひとつ、これは意識の問題に関わるので反論もあると思うのだが、売買春を奨励することが、果たして本当にガス抜きに繋がるのか。「素人童貞」という言葉は、性風俗がこれほど一般的であるにもかかわらず、それが「真の愛情」とは何の関係もないという規範と一体になっているために生じた言葉なのではないか。彼らは、売春がいけないと思いこまされたから真の愛に向けて鬱屈したのではない。売春がありふれているからこそ、性欲の解消では満たされない「真の愛情」の存在を措定したのだ。
性愛からの疎外で鬱屈された人に対して性的サービスを提供する主体はあってもいいのかもしれないが、それは国営という形でなされるべきではないし、できるかぎりそういう人を減らすような努力が先行するべきだ。性的なパートナーとは何か、パートナーになるとはどういうことか、といった事柄を、「愛」とか抽象的な言葉ではなく、具体的な問題として伝えていく場所も必要だろう。それは教育だけでなく、親から子、兄貴分、姉貴分から年下の人々へ、という道だってあり得る。結婚するとどのくらいのお金がかかるのか、男性/女性は家庭を持ったらどう変わるのか、子供が生まれると睡眠時間はどのくらい減るのか、そして、それはどのくらい楽しいのか。その手のことを、抑圧ではない形で少しずつ伝えていく努力が失われていくと、「要はヤらせりゃいいんだよ」的な短絡しか出てこなくなる。
そう考えると、「辛い人を助ける」というのは、口で言うよりはるかに難しく、大変なことなのだ。そして、多くの人はそれが分かっているからこそ「大変だなあ」と思うだけで何もしようとはしない。格差や貧困に向き合っているということは、その困難さを引き受けながら、それでも前に進もうという意思の表れなのだろう。そう思って多少なりとも敬意を払っていただけに、私はこの安直なアイディアに失望し、怒りを覚えたのだ。実践は大事だ。けれど、実践するために思考停止を許すというなら、それはもうただのファッショだ。知的権威に背を向けるというのなら、そのくらいの役目は自分で負ってほしいと切に願う。
もちろん、メンバーの多くはきちんと考えているのだろう。行かなかったけど、シンポジウムのログを見る限り、それぞれが切実に自分の問題を引き受けてそこに立っていたのだろうし、議論もあったのかもしれない。けれどだからこそ、こういう迂闊な発言は、その場で徹底的に批判されるべきだったと私は思う。もしかすると、過去の「運動」のトラウマもあって、できれば仲間内で批判合戦とかやめたい、みたいな思いはあるのかもしれない。だが、批判と非難は違う。ましてやそれは誹謗ではない。今回の件は本当に失望したが、それは別に「もはやノーフューチャー」ってことではないのだ、きっと。