■この件に関してだけは、ぼくは子供の側に立つ
まぁ、「だけ」でもないけどね。
指輪世界の第二日記 : なぜ人を殺してはいけないのか?
つまり、くわしいことは事例ごとに具体的に調べてみないとわからない、が、だいたい、ほぼ、まずもってわかる。
それがために、事例ごとの個別の具体的な検証をすっとばして、おおざっぱに人々は言う、人を殺してはいけない。それは実運用上ほぼ合っている、ヒューリスティックである。
さかしい子供は、そうしたヒューリスティックに突っ込みを入れたくなるものである。といって、しょせんは儒子の童問。身構えることもない。……って言ってくれる人がいて、答えに窮してたオトナたち、寄り集まって溜飲を下げるの図。→ http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/ityou/20060618
「しょせんは儒子の童問。身構えることもない」って言ってみたところで、「子供が素直に納得できるような答えはいまだ与えられたことがない」という事態にはなんの変わりもないわけですが。
進化心理学的解答は、例え正しかったとしても、子供は納得しないだろうな、とは思う。対称性をルール作成の根底におく意見も多いけど、「ダブスタの何が悪い?」という反論には対処が難しい。
あと、殺す、という概念は結構高等な概念で、遺伝子に刷り込まれているのはもっとプリミティブな、「共感の切断に対する嫌悪」みたいなもんじゃないかとこのごろ思っている。動かなくなって、腐敗していくことへの嫌悪、そういうものが寄せ集まって「殺す」という概念が成立しているのかな、と。だから、目の前で、お友達をぶん殴ることには抵抗があっても、どこか遠くで落っことす爆弾は、抵抗無く作れる。もちろん、共感の対象となるネコは殺せないし、共感の対象とならない「 」は殺せる。人間が、何を殺してはいけないと思い、何を殺してはいけないと思うか、を思うには、自分的には便利。
コスト・ベネフィット論について
id:crow_henmi氏の文章は、ままならない現実のどっかに着地して、それでも前を向いて歩こう、という、自分の好きなスタンスなので、ヘンなコメントをつけるのはやめにして、関係ないコメントをつけてみる。
「コスト・ベネフィット論」のような何か(今回リンクされたのじゃなくて、そう、仮想敵ね)は、よく合理的なものと考えられます。たとえば、なんとかの90%はクズだ。だから、クズを捨てれば、合理的な集合ができる。みたいな。で、90%のクズを捨てるとどうなるか。残ったものの中に、また90%のクズを発見することになります。やっきになってクズを捨てていくと、残るのはカルトのような偏狭な何かで、楽しそうです。1940年代の西欧とか、あと、文学の一ジャンルなんかを連想します。なんとか山荘とか。そういう集団のミームは、あまり広がらないようです。
よく、勘違いされるのですが(いや、世界中の俺以外が正しくて、俺だけ勘違いしているのかも)、強いから生き残るのじゃなくて、生き残って(子孫を残したのが)適者だと。海生哺乳類は、大きなオスがこの先生き残れるので、どんどん大きくなっていきました。私が無視しがちで、北極圏の大型哺乳類のような先生氏がよく指摘する性淘汰によるのかもしれません。であれば、いまごろアザラシは体長200メートル位、クジラなんか2000メートルになってもいいじゃないですか。でも、二乗三乗の法則が働くし。
そんなわけで、福祉を、単なるコスト/ベネフィット、というより、投資に値するかどうか、で考えてもいいんじゃないでしょうか。