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怪物図鑑(テッド・バンディ)



テッド・バンディ



本名

セオドア・ロバート・バンディ


誕生日

1946年11月24日


出生地

アメリカ合衆国

バーモント州バーリントン


犯行期間

1974年〜1978年


犯行内容

誘拐、強姦、殺人、死体損壊、死体遺棄


犯行現場

アメリカ合衆国の各州

(ワシントン州、オレゴン州、ユタ州、アイダホ州、コロラド州、フロリダ州)


殺害した人数

30人以上


逮捕された日

1975年8月16日


脱走した日

1977年12月30日


再逮捕された日

1978年2月15日


判決

死刑


死没日

1989年1月24日(享年42歳)


死因

電気椅子での処刑による感電死





人物概略


テッド・バンディは、1974年〜1978年に掛けて、全米でおびただしい数の若い女性を殺害した


被害者の正確な総数は判明していないが、バンディは約10年間にも渡る否認を続けた後、30人を超える殺人を犯したと自白している


バンディは、原型的かつ典型的なアメリカのシリアルキラーとして考察されており、実際「シリアルキラー」という表現はバンディを表す為に考え出された名称である


バンディが好む殺害方法は撲殺や絞殺であった


少女や若い女性を言葉巧みに誘い、無防備な状態にさせてから相手を殴りつけて意識を失わせ、それから性的行為に及んだ


元FBI捜査官ロバート・K・レスラーをして「ケダモノ」と言わしめている


バンディは、女性を乱暴して殺害する事をなんとも思わない、残忍で加虐的な性格の持ち主であった事から、反社会性パーソナリティ障害(サイコパス)であったと考えられている


しかし、残忍な殺人犯という一般的な評価に反し、しばしば知的でハンサムで愛嬌がある好青年であったと評される事も多い





バンディの青年期


1946年11月24日、バーモント州バーリントンに私生児として生まれている


出生時の名前はセオドア・ロバート・カウエルで、バンディの母ルイーズはデパートの店員、血縁上の父親は不明となっている


バンディと母親は、彼が9歳になるまで、気性が激しく暴力的だった祖父と共にフィラデルフィアで暮らしている


私生児という不名誉を隠す為、バンディは祖父母の養子、つまり母親の弟として周囲に触れ込まれていた


バンディの叔母は、彼がまだ幼少の頃、母親は彼のベッドの横に立ち、笑みを浮かべながらナイフで彼を威嚇したと主張している


バンディと母親は、その後ワシントン州タコマに移り住んだ


それからしばらく後、母親は教会の会合で出会った退役海軍軍人で、病院のコックを務めていたジョン・カルペパー・バンディという男性と結婚した事でバンディ姓となった


もしかすると、幼年期〜青年期に渡り、バンディは実の母親を姉と考えていたのかも知れない


ウィルソン高校での高校時代、バンディは華々しいとまでは言えないまでも、メソジスト教会とボーイスカウトの活動に熱心な優れた学生だった


しかし、伝記「The Only Living Witness」の著者であるスティーブン・ミショーとヒュー・エインスウォースによれば、バンディには他者と迎合する生まれつきの感覚が欠如していたという


事実、バンディは著者に対し、「人が他人とコミュニケーションを取ろうとする事の理由が解らなかった」という内容を語っている


バンディは、高校の大半と大学時代の早期を通じ、内気で内向的なままだった


だが、高校を卒業する前から、万引きや窃盗などの犯罪活動は始まっている


また、「思春期の若者として覗きなどの倒錯的な性行為に耽っていた」と公言しており、「自分自身の一部は、幼年期より性や暴力のイメージに魅了されていた事を実体と表し、またそれをよく隠していた」とバンディは自身の事を語っている


加えて、バンディは残虐な性描写を特徴とするスナッフフィルムのファンであるとも語っている





高校卒業後、ピュージェットサウンド大学へ入学したバンディは、心理学を専攻する傍ら自己変革に取り組み、「ハンサムで頭脳明晰な青年」へと周囲の評価は変わって行く


マナーを磨き、ファッションセンスを洗練させ、社交的に振舞うようになる


その傍ら、社会的な活動にも目を向け、手始めにワシントン州の共和党員としてワシントン州知事選の選挙活動に参加し、その目覚ましい活躍ぶりでたちまち若手党員の中から頭角を現し、「テッドなら、将来州知事や連邦上院議員にもなれるだろう」と称賛された


共和党員としての活動だけではなく、州政府犯罪対策委員会やシアトル自殺救済電話相談室では、専攻している心理学の知識を活かして犯罪対策に関する政策立案、法案作成の補助やカウンセリングなどのボランティア活動で業績を上げている


またこの時期、水難事故で溺れた子供を救助し、地元警察より表彰もされている


自殺救済電話相談室で共にボランティア活動をしていた、駆け出しの犯罪記者アン・ルールは、皮肉な事に彼女の友人であるバンディの犯罪と知らず、彼の犯した犯罪記事を書いている


数年後、彼女はバンディの伝記「テッド・バンディ― アメリカの模範青年の血塗られた闇」を書く事となる


バンディは、大学一年生の時にサンフランシスコの名家出身の女性と交際を始めた


彼女を追ってサンフランシスコへと移り、スタンフォード大学にも一時籍を置いた事もあった


しかし、彼女がバンディの未熟な面、覇気のなさに嫌気が差した結果、交際は破綻してしまう


バンディが前述の自己変革に取り組んだのは、この失恋がきっかけと思われる


交際の破綻から2年間を経て、再び彼女とバンディは交際を始め、彼らは婚約を果たす


だが、婚約から僅か2週間後、バンディは彼女からの電話に出る事がなくなり、あっさりと彼女を捨てている


この交際の破綻後、バンディは3年間に渡り殺人凶行を始めた


バンディの殺人対象者に見られる共通点は、「髪を真ん中で分けた黒髪の若い白人女性」という原型は、この女性から形成されているとルールは考察している





連続殺人


バンディ研究の専門家の一部、ルールやキング郡の元刑事ロバート・D・ケッペルなどは、10代前半からバンディは殺人を始めていたかも知れないと考えているが、最古の立証されたバンディの殺人は、彼が27歳の時である1974年に起こっている


バンディは、1974年1月4日の夜半過ぎ、ワシントン大学に通う18歳の女子生徒の地下寝室に忍び込み、眠っている彼女をバールを使って殴打、ベッドの鉄棒を引っこ抜き、それを使って彼女に性的な暴行を行った


翌朝、彼女は自身の血の海の中、昏睡状態で横たわっている所を発見される


奇跡的に一命は取り留めたものの、永久的な脳障害を負った


バンディの次の犠牲者は、ワシントン大学4年生の女子生徒だった


彼女の地下室に忍び込んだバンディは、彼女を気絶するまで殴り、その後ジーンズとシャツを着させてシーツで包み、彼女を運び出した


その一年後、彼女はシアトルの東の山中で首を斬られた姿で発見されている


1974年の1月〜6月に掛けて、ワシントン州の8人の女性をストーキングしては殺害した


同年の7月には凶行も全盛を極め、サマミシュ湖州立公園にて昼間から2人の女性を拉致して殺害している


バンディは、魅力的な顔立ちをしていたものの、とりわけて覚えやすい顔立ちでもないという珍しい長所を持っていた


後年、「彼はひげや髪型を変えるといった小さな変化だけで、全く姿を変えられるカメレオンのようだ」と言われている


夏が過ぎ秋に入った頃には、バンディの犠牲者達の遺体がサマミッシュ湖周辺の山奥で次々と発見され始めたが、時期を同じくしてバンディはユタ州に移住している


優秀な成績で大学を卒業したバンディは、ワシントン州知事の推薦状を携え、ソルトレイクシティにあるユタ大学法科大学院に進学したのである


ここでバンディは10月〜殺人を再開した


まずは17歳の女性を暴行し、その後に絞殺している


彼女の遺体は7日後に発見された


またその後、他の17歳の女性がハロウィンの日に失踪し、約1ヶ月後の感謝祭の日に遺体が見つかっている


バンディが毒牙に掛ける女性の特徴は決まっており、長髪かつ髪を真ん中で分けたスタイルの良い若い女性という事でほぼ共通していた





裁判、そして逃亡


1974年11月4日、ユタ州マレーに住む18歳の女性は、バンディの手に掛かりそうになった場面から逃げ出した


バンディは警察官を装い、ショッピングモールにいた彼女に、彼女の車が泥棒に押し入られた旨を伝えるという手法を取った


危惧する彼女をモールから連れ出し、車を点検させる


だが、車には当然何も異常がない


バンディは、彼女に「書類を作るので警察署まで来てくれないか」と、彼女をバンディの所有するフォルクスワーゲン・タイプ1に乗せて走り始める


しかし、彼女は違和感を覚えていた


その後、バンディが彼女に手錠をはめようとした所で彼女は逃亡した


以上のあらましを彼女は地元の警察に訴えている


1975年8月16日、バンディは彼女を誘拐したタイプ1で走行していた所を逮捕され、その車は彼女を誘拐した車と同一であると確認された


1976年3月1日、一週間に渡る裁判の後、バンディは上記の少女を誘拐した罪で、1年〜15年のユタ州立刑務所での禁錮刑を言い渡される


しかし、当然コロラド当局は連続殺人事件を追求していた


1976年6月7日、バンディの殺人事件の裁判の準備中、彼はコロラド州ピトキンにある裁判所へ移送される


休廷中、裁判所内の法律図書室に入室を許可される


バンディは、そこの2階の窓から飛び降りて逃亡を図る


しかし、その際にバンディは足首を痛め、結果として逃亡に失敗した彼は、その1週間後に捕まり刑務所へと戻された


しかし、裁判の開始を待っている時期にバンディは再び逃亡する


コロラド州グレンウッドスプリングスにある刑務所に収監されていたバンディは、どういう理由か弓鋸を所持しており、それを用いて独房の天井に四角い穴を開けていた


1977年12月30日の夜、バンディはその穴によじ登り、コソコソする事なく正門まで堂々と歩いて行き、車を盗んで逃亡した





フロリダへと向かう


刑務所を訪問した友人が渡した約500ドルで、バンディは片道の航空券を購入する


トランス・ワールド航空のデンバー発シカゴ行に乗って逃亡したのだ


ミシガン州アナーバー行きのアムトラックの旅客列車に乗車し、その後車を盗んでアトランタのスラム街で乗り捨てた


そこからフロリダ州タラハッシーまではバスで移動した


タラハッシーでは「クリス・ヘイゲン」という偽名でアパートを借り、ひとまず腰を落ち着けた


1978年1月15日の深夜、カイオメガ女子寮にて、睡眠中の女生徒を襲い、2人を撲殺し2人に重傷を負わせる


1978年2月9日、レークシティーに移動し、そこで12歳の少女を誘拐して性的暴行を加えながら、彼女の顔を泥につけて溺死させ、死体を小屋の下に遺棄する


この彼女がバンディの最後の被害者となった


その後、1978年2月15日午前1時ペンサコーラにて、バンディが乗っていたフォルクスワーゲンが盗難車のナンバーであった事から警官に拘束される


警察での取り調べの際、自分はクリス・ヘイゲンであり、不当な逮捕だと強硬に主張したが、やがてバンディの身元は判明し、カイオメガ女子寮での殺人事件の裁判の為にマイアミへと移送される



判決、死刑執行


法廷でのバンディは、弁護士を依頼せず、自ら弁論や弁護を行った


1979年6月25日〜7月31日に掛けて、バンディの第2審が開かれた


5人の国選弁護人がいるにも関わらず、バンディは自分で自分の弁護を行った


また、公判中に昔仕事場で同僚だった女性と結婚し、一子をもうけている


加えてバンディは、死刑執行までの間、数百にも及ぶファンレターを送られている


当たり前の事だが、判決は死刑であった


裁判官は判決の際、以下の事をバンディに告げた


「貴方が電流によって死に至るまで座っているよう、貴方が死ぬまで電流が貴方の体内を通るよう、ここに命じるものである。青年よ。これは真摯に言っているのだ。この法廷で私が経験したそのような人間性の浪費は、この裁判所に取って悲劇とも言える。貴方は聡明な青年だ。貴方は優秀な法律家になれたかも知れない。そして私は、法廷で貴方が活躍する姿に惚れ込んだかも知れない。私は、貴方に何ら敵意も持っていない。それは理解して欲しい。しかし、貴方は道を間違えた。体に気を付けなさい」





獄中でのバンディ


ロバート・K・レスラーは、フロリダの刑務所にいたバンディに会いに行き、彼と面談を行った事がある


バンディが有罪となり、上訴請求が棄却されてから、FBIの調査プロジェクトの為に、レスラーはバンディとの面談を望んでいたが、ある時、バンディがレスラーに手紙を出し、面談が実現したのだ


バンディが手紙を送ったのは、FBIの調査資料を入手して自分に課された死刑宣告を覆す為であった


しかし、レスラーは資料の受け渡しを拒否し、バンディが犯した犯罪にしか興味がないと告げた


するとバンディは、「自分は上訴に勝つ。死刑にはならない」と豪語したという


レスラーの質問をのらりくらりとかわしたり、自分の犯した殺人については3人称を使って話し、「自分がそうした」と、ハッキリとは認めなかった


レスラーは、バンディが真実を語る事は決してないと考えたという


それまで冤罪、無罪を訴えて久しかったが、死刑執行の4日前になって、バンディはすべてを話すと言い出した


全国から警察官が集まり、バンディの話を聞く事になった


バンディは初めての殺人について曖昧に話し続け、時間が掛かりそうなので死刑を延期するよう請願をしてくれれば全部話せると言ったが、受け入れられる事はなかった


最終的には自分の罪を認め、その上で「私は暴力の中毒だった」と語り、寂寥感に溢れた顔を見せた


1989年1月24日午前7時6分、フロリダにある電気椅子で42歳になっていたバンディに死刑が執行された


2000ボルト以上の電圧を2分間に渡り加圧され、午前7時16分に死亡が確認された


その翌日、バンディの死刑執行を信じない人間が多数存在していた為、新聞の一面に彼の遺体のカラー写真が大きく掲載されている


なお、この記事のタイトルは「殺人鬼は微笑みを浮かべ死んだ」となっていた














テッド・バンディが殺害した女性の数は最低でも30人とされているが、実際はその倍以上の女性が犠牲になった可能性もある


さすが「シリアルキラー」というフレーズが誕生するきっかけとなった殺人鬼と言える


バンディ以上に多人数を殺害した人間は少なくないが、バンディ以上に酷い殺し方をした殺人鬼は滅多にいない


正に暴力の中毒、暴力の虜となっていたのだろう


個人的に一つ気になるのは、バンディは公判中に一人子供を授かっているが、その子は実の父親がテッド・バンディである事を知らされているのだろうか?


仮に自分自身がテッド・バンディの実子だとしたら、それを知らされた時点で相当なショックを受け、以降はまともに人生を送る事は出来ないだろう


親がどんなに極悪な殺人鬼であろうと、子供には何の罪も責任もないのだから、是非親がテッド・バンディだとは知らずに人生を歩んで欲しいと願う



記事No.1364