もう7年も前の話なんだけど、俺は昼間は仕事、夜は夜間大学に通っていた
苦学生としてなかなか忙しい毎日を送っていた
学校が終わるのは深夜で、普段は翌日の仕事に備えて急いで帰宅していたが、その日は土曜日
翌日が休みだったので、俺は月明かりの中ゆっくりと自転車を漕いで帰っていた
帰り道は田舎の農道のような場所で、深夜の静寂と不気味な雰囲気には慣れていたが、それでも案山子の首がこちらを凝視しているような風景には薄気味悪さを感じていた
そんな帰路で、普段なら気にもしない古い自動販売機に目が止まった
田舎では珍しくない、メジャーなメーカーではない古い自販機
細長いロング缶が並び、当たりが出たらもう1本貰えるおみくじ付きの仕様のやつだ
切れかけた電灯が「ジジジ」と音を立てる中、静まり返った深夜に小銭を投入する音がやけに響く
別に喉も渇いていなかったが、何となく買いたくなってボタンを押した
おみくじのランプが「ピピピピピピ」と鳴り始める
その音がシーンとした田舎の夜に不釣り合いで、妙な気分だった
「当たっても2本は飲めないしな」と思いながら、取り出し口を手探りで探した
その時
突然手を握られた
間違いなく人の手の感触だった
しかも、握る力はどんどん強くなってくる
痛みで我に返り、必死に振りほどくと、あっさり抜けた
半狂乱で自転車に飛び乗り、その場を全力で離れた
まっすぐ家に戻るのは怖かったので、そのまま友人の家に転がり込んだ
今思えば、それは正しい判断だった
一人だったら気が狂っていたかも知れない
というのも、その後、手が「握手」の形で硬直したまま動かなくなったからだ
まるで部分的に金縛りにあったように、何をしても解けない状態
友人もただ事ではないと感じたらしく、二人で朝まで念仏のように祈り続けた
そして夜が明ける頃、急に何かから解放されたように手が普通に動くようになった
だが、それ以来、何かの「口」になっている物に手を突っ込む事が出来なくなった
自販機はもちろん、郵便受けやポストなども駄目だ
「また握手されるのではないか?」という恐怖が頭を離れない
その出来事から5年後、法事で田舎に帰省した際、あの道に再び行く事を決めた
夜間大学を卒業してから一度も通らなかった道だが、何故かその時は行ってみようという気持ちになった
何かに導かれるような感覚だったが、正直嫌な予感もしていた
車で進んで行くと……
そこには、もうあの自販機はなかった
当時でもかなり古かったから、撤去されるのは当然だろう
だが、それを目にした瞬間、数年間の呪縛から解き放たれたような安堵感を覚えた
これで完全に忘れられるとも思った
その帰省中、昔馴染みの友人達と飲みに行く事にした
ほろ酔い加減で楽しい雰囲気の中、勢いでその時の話をみんなに聞いて貰う事にした
あの頃は恐ろしくて話せなかったが、今なら「なんだそりゃ?」と笑い話に出来ると思ったからだ
話をつらつらと進めていると、途中で友人の一人が「ちょっと待って」と話を遮った
「何だ?」と俺が聞き返すと、彼が言った言葉は俺の酔いを完全に覚ますものだった
「あの道にそんな自販機なんか見た事ないぞ」
他の友人達も同意し、全員が「あの場所にそんなものなかった」と口を揃えた
驚いたのは、それだけではなかった
あの夜泊めてくれた友人の杉本までが、「そんな自販機は知らないし、二人で念仏を唱えた覚えもないよ」と言い出したのだ
俺は混乱し、目の前が真っ白になった
確かに杉本と一緒に夜通し念仏を唱えた筈だ
硬直して動かなかった俺の手を見て、杉本も震えていた筈なのに、これはどういう事だ?
さらに奇妙なのは、俺自身がその出来事の記憶をだんだんと失っている事に気付いた事だ
あの時の自販機で何を買ったか、あの夜の出来事の詳細、そしてその日学校で何を学んだか……
すべてが薄れるように抜け落ちて行く
夢の記憶のように、必死に思い出そうとしても、気が付けば曖昧になり、そして消えてしまう
何かの力がその記憶を意図的に消しているのではないか?という不気味な予感が湧いて来た
このまま記憶が完全に消えたら、また何かの「口」に手を入れてしまうのではないか?
その時、再び握手されるのではないか?
いや、今度こそ放して貰えないのではないか?
そんな恐怖が頭から離れなくなった
一つ、とても重要な事を思い出したので、記録に残しておく
というか、何故それをずっと忘れていたのかが恐ろしい
この事だけは絶対に忘れてはいけないのに……
あの時、自販機の取り出し口で強く握られていた手があっさり抜けた理由
今では、それが祖母のお守りのおかげだと確信している
祖母は生前「田舎には物の怪が多いから」と親戚中に特別な力を込めたお守りを配っていた
お守りには祖母の力と、彼女の髪の毛が一本入っていた
そのお守りを、俺は当時、交通安全くらいにはなるだろうと軽い気持ちで携帯していた
だが、今では間違いなくそれが自分を守ってくれたと信じている
お守りがなければ、手を放して貰えなかったのではないかと思う
恐ろしいのは、このお守りの存在すらも記憶から消えかけていた事だ
何かが意図的に忘れさせようとしているような気がする
このお守りを失ったら、次に何かに握られた時は、もう放して貰えない気がしてならない
だから、この事を忘れない為にも、ここに記しておく
記憶が薄れ、いつか完全に消えてしまうとしても、少なくとも今は書き残しておく事が出来る
このお守りが自分を守ってくれた事を、そして、この事を絶対に忘れないように
なかなか興味深い話だよね
仮に俺が自販機の取り出し口で手を握られたとしたら、その場に友達呼んで自販機を分解しちゃうかも
だけど、中から本当に人が出て来たら驚くだろうなー
ただ、それが美人だったら許す(笑)