どうも、豊井さん… pic.twitter.com/FXLHyDMSxC
— 夏目藤村 (@Dragon_lily) 2017年6月25日
ザ・ノンフィクションという番組に知人のニートが出演していた。
震災の後の頃だったろうか、彼は突如として我々の住むシェアハウスに転がってきた。
彼は最小限の荷物と金だけを持ちチャリで家出を敢行し遥か東京を目指していたのだが、
力着き息も絶え絶えだった所をtwitterで同居人が発見し、収容した。
その日から彼は我が家のペットのような立ち位置に収まった。
仕事から帰ると居間で転がっている彼にご飯や酒を与え、話し相手を勤めさせ、時に庭掃除なんかをさせながら共存していた。
しかし彼は金が無いし、職も無い。
そのうち我々は彼に労働意欲や社会への参画を求めだしたが、我々が思うようには行かなかった。
今思えば我々の思う「社会とは」をかざして好きに説法していたのだろう、そうして徐々に我々と彼との関係は変化していった。
そんなある日、近隣住民からBBQに誘われ、我々と彼で参加することになった。
近隣住民は、ゴリゴリに稼ぐ能力を持ち、家も車も家族も持ち合わせた、「ザ・社会」とも言うべき豪腕オジサン達だった。
酒宴が進むうち、オジサン達は彼の置かれた状況に物申す流れになり、最終的に彼をスリッパで引っ叩きながら叱責するまでに至った。
「働け!さもなくば田舎に引っ込め!」と。
我々の意見もオジサン達と大きく変わらなかったこともあり、もう彼とは折り合いが付かないと言う事実が決定的となった。
それから色々あったが結局、半ば追い出すような格好で彼とは袂を分かった。
ザ・ノンフィクションで彼がまだ元気で生きている事が確認できた。
その後、彼はギークハウスに収容されており、水にあったのだろう随分と顔つきが違ったように見えた。
自分が追い出しておいてなんだが、その姿を見て少し安心した。
無人島に一人でいない限り人は社会と関わって生きるが、社会の定義や関わり方は多様化している。
会社勤めして家と車と家族を持ち当然ご近所付き合いもして、と言った価値観は未だに大勢だろうが
それを息苦しく感じる人もそりゃ居るだろう。
当初、みんなで楽しくやっていたはずだが、我々が彼に求めるモノと与えるモノが違ったのだと思った。
寝食を提供して無償で養い続ければよかったのかと言う話しでは無く、彼は彼にあった何かを、社会を共にする仲間として提供できてなかったという事だ。
我々は普通に日々働かないと生きていけなかったから、逆に言うと普通に働くしか生きるソリューションを知らないという事でもある、
その中で持ち合わせたコミュニケーション手段は画一的なものだったのだろう。
しかしそれ以外の価値観、そんな得体の知れない何かを提供するなんて出来たのだろうか??
我々はそこまで賢くないし、彼の人生を支える何かを「提供する」という事自体なにか大それたことな気すらしてくる。
twitterに流れてくる「ザ・ノンフィクション」の感想を見ていると、やはりニートへの目線は厳しい。
だが、社会の構成員として我々と彼は絶対に折り合いの付かない間柄だったのだろうか。
やはり今持ってさっぱり解らない。正しい関わり方が見えてこないし、正解を持ち合わせない自分が悲しくなる。
とにかく言えることは、彼は彼の生きるふさわしい社会があって、生きていてよかった、ということだ。
よかった、お互い生きていこう、うん。
と言った感じでボンヤリと取り留め無く考えながら、自分も無職であることを思い出して焦燥感を覚える、そんな日曜の午後だった。